私の最後
夜の海は、静かだった。
波は何事もなかったかのように寄せては返し、月の光を細かく砕いている。その景色は、高校三年の春に理沙と並んで眺めた海と、何ひとつ変わっていなかった。
変わったのは、私だけだ。
私は海辺に立ち、ポケットから小さな髪留めを取り出した。
紺色の、小さな花柄の髪留め。
理沙がよくポニーテールを結ぶ時につけていたものだった。
指先へ伝わる冷たい感触が、私を現実へ引き戻す。
「侑月」
波の音に混じって、彼女の声が聞こえた気がした。
私はゆっくり目を閉じる。
あの夜が、鮮明によみがえる。
私の手。
理沙の首。
私を見つめる瞳。
そして、最後に呼ばれた私の名前。
私は、あの瞳に何を見たのだろう。
赦しだったのか。
恐怖だったのか。
それとも、ただ親友を信じ続けた一人の少女の眼差しだったのか。
答えはもう聞けない。
私が、その口を閉ざしてしまったからだ。
私はゆっくりと靴を脱いだ。
裸足で砂浜を歩く。
夜の砂は冷たく、波が足先を濡らすたびに、小さく身体が震えた。
高校三年の夏、この場所で理沙は笑っていた。
「侑月、海ってさ、生きてるみたいだよね」
そう言って波から逃げるように走り、子どものようにはしゃいでいた。
私は、その横顔を見つめていた。
眩しかった。
綺麗だった。
私はその笑顔を、永遠に失いたくないと思った。
その願いが、いつしか「私だけのものにしたい」という願いへ変わっていった。
愛は、少しずつ形を変えていた。
気づかないほど静かに。
私は海へ一歩踏み出す。
冷たい海水が足首まで届く。
波が引くたび、身体まで海へ連れていかれるような錯覚に襲われた。
私は疲れていた。
理沙を失った日から、一日たりとも眠れた日はなかった。
目を閉じれば、彼女の顔が浮かぶ。
耳を澄ませば、彼女の声が聞こえる。
食事をしても味はしない。
朝が来ても、生きている実感はなかった。
私は、自分もここで終わればいいと思っていた。
理沙を殺した私が、生きていてはいけない。
その考えだけが、私をここまで歩かせた。
波が膝まで届く。
夜風が頬を撫でる。
私は空を見上げた。
星が静かに瞬いていた。
あの日も、こんな夜だっただろうか。
「侑月」
また、声が聞こえた気がした。
振り返る。
誰もいない。
あるのは波音だけだった。
それでも私は、小さく笑ってしまう。
「ごめんね」
その言葉は、初めて口からこぼれた。
今まで何度も「愛していた」とは言えた。
「ごめん」は言えなかった。
私はずっと、自分が苦しいことばかり考えていた。
理沙がどれほど苦しかったのか、一度も考えようとしていなかった。
私は海を見つめる。
あの日、理沙は私を信じていた。
だから抵抗しなかった。
親友だから。
安心できる存在だから。
その信頼を、私は自分の手で壊した。
愛したからではない。
愛し方を間違えたからだ。
その事実が、今さらになって胸へ押し寄せてくる。
波は腰まで届いていた。
あと少し進めば、海は私を飲み込むだろう。
それで終われる。
苦しみも、罪も、全部終わる。
私は一歩前へ足を出そうとした。
その時だった。
『侑月は、いつもそばにいてくれる。なんか、安心するんだよね』
理沙の日記の一文が、不意によみがえった。
私は足を止める。
安心。
その言葉が胸へ突き刺さる。
私は理沙を安心させていた。
なのに、その安心を裏切った。
理沙が最後まで私を信じていたからこそ、私は彼女を殺すことができてしまった。
違う。
違う。
これは愛なんかじゃない。
私は涙を流した。
今まで流せなかった涙だった。
「理沙……」
声が震える。
「ごめん……」
波が静かに私の身体を揺らす。
海は何も答えなかった。
ただ、何度も何度も波を返していた。
私は初めて思った。
もしここで私まで死んだら、この罪は誰が背負うのだろう。
理沙は戻ってこない。
私が死んでも、理沙は笑わない。
それどころか、私はまた逃げるだけなのではないか。
罪からも。
後悔からも。
理沙からも。
私は、その場でゆっくり膝をついた。
冷たい海水の中で、声を上げて泣いた。
今まで一度も泣けなかった分まで。
夜の海だけが、その泣き声を静かに受け止めていた。
私はゆっくりと立ち上がった。
涙で滲んだ視界の向こうで、夜の海は静かに揺れている。
波は何も語らない。
私を責めることも、赦すこともなく、ただ変わらず寄せては返していた。
私はもう一度、前へ歩き出す。
冷たい海水が腰を包み、胸へと迫る。
服は重くなり、身体へまとわりつく。
それでも足は止まらなかった。
私には、生きる資格などない。
そう思っていた。
理沙を殺したあの日から、その考えだけが私を支えていた。
私が死ねば、この苦しみも終わる。
この罪も、静かな海の底へ沈んでいく。
そう信じたかった。
水は胸を越え、肩へ届く。
夜風が頬を撫でる。
理沙と来た海は、こんなにも冷たかっただろうか。
私は髪留めを胸に抱き寄せる。
彼女の笑顔が浮かぶ。
高校の春、校庭で笑っていた理沙。
夏の海ではしゃいでいた理沙。
秋の夕暮れ、一緒に歩いた帰り道。
冬の喫茶店でココアを飲みながら笑っていた理沙。
そのどの記憶にも、私の知らない優しさがあった。
理沙は誰に対しても変わらなかった。
だから私は惹かれた。
だから私は苦しくなった。
そして、その優しさを独り占めしようとした。
水が首元まで届く。
冷たさが息を奪う。
あと一歩進めば、私は海へ沈む。
理沙のもとへ行ける。
そう思った。
私は静かに目を閉じる。
「理沙……」
声にならない声が漏れる。
その瞬間、不意に彼女の笑顔が浮かんだ。
最後の夜ではない。
泣いている顔でもない。
高校で初めて私へ話しかけてくれた日の笑顔だった。
『侑月、いつも本読んでるよね』
屈託のない笑顔。
何の打算もない声。
ただ私と友達になりたいと笑っていた理沙。
その笑顔へ、私は手を伸ばした。
届くはずがない。
もう二度と。
私が奪ってしまったのだから。
胸が締めつけられる。
息が苦しい。
冷たい海ではなく、後悔が私を沈めていく。
「違う……」
私は小さく首を振る。
「理沙は、こんなこと望まない」
理沙は、誰かが傷つくことを嫌う人だった。
困っている人を放っておけない人だった。
そんな理沙が、私の死を望むだろうか。
答えは分かっていた。
望むはずがない。
それなのに私は、死ぬことで彼女に近づこうとしていた。
それは最後まで、自分のことしか考えていない選択だった。
私は震える唇を噛む。
「ごめん……」
海へ向かって呟く。
「ごめん、理沙」
涙が頬を伝い、海水へ溶けていく。
私は一歩だけ前へ踏み出した。
水面が口元まで迫る。
冷たい海水が唇へ触れる。
もう終わりにできる。
苦しみも、後悔も、全部。
けれど、その瞬間だった。
理沙の日記の言葉が、胸の奥ではっきりと響いた。
『侑月は、いつもそばにいてくれる。なんか、安心するんだよね』
私は、その安心を裏切った。
その罪は、一生消えない。
だからこそ。
だからこそ、私は死んではいけない。
死ぬことは償いではない。
苦しみから逃げることだ。
理沙はもう、生きられない。
ならば、生きて苦しめるのは私だけだ。
私は首元まで海へ浸かったまま、その場で崩れるように泣いた。
声を上げ、息を乱し、何度も何度も理沙の名前を呼んだ。
足元を波がさらう。
身体は冷え切り、力が入らない。
視界がぼやける。
意識が遠のいていく。
私は海の中へ倒れ込んだ。
冷たい海水が顔を覆う。
耳の奥で波の音だけが響く。
そのまま意識はゆっくりと薄れていった。
最後に思い浮かんだのは、笑顔の理沙だった。
そして私は、闇の中へ沈んでいった。




