贖罪
冷たい海水が肺に入りかけた、その瞬間だった。
「侑月!」
誰かの叫び声が聞こえた。
現実だったのか、それとも幻だったのか、私には分からない。ただ、誰かが海へ飛び込み、私の腕を掴んだ。
薄れゆく意識の中で、私は必死にもがいていた。
死にたかったわけじゃない。
本当は、生きることから逃げたかっただけだった。
__理沙。
ごめん。
その言葉だけが、心の中で何度も繰り返されていた。
気がつくと、白い天井が見えた。
独特の匂い。
規則正しく鳴る心電図。
私は病院のベッドの上にいた。
目を閉じると、あの夜のことが蘇る。
理沙の笑顔。
理沙の涙。
理沙の「侑月」という声。
そして、自分の手。
私は、もう二度と忘れることはできない。
忘れてはいけない。
あの日、私が奪った命は戻らないのだから。
数日後。
私は警察へ向かった。
誰に言われたわけでもない。
逃げ続けることにも、死んで終わらせることにも意味はないと、ようやく分かったからだ。
取調室で刑事は静かに私を見つめていた。
「話せますか」
私は小さく頷く。
「はい」
震える声だった。
それでも私は、自分の口で話し始めた。
出会った日のこと。
笑い合った日々。
愛したこと。
嫉妬したこと。
そして、理沙を殺した夜のことを。
途中で何度も涙が止まらなくなった。
それでも私は話し続けた。
それが、私に残された最初の償いだと思ったから。
裁判の日。
理沙の家族の姿があった。
私は顔を上げることができなかった。
謝罪の言葉を口にしても、それで許されるとは思っていない。
どれだけ「ごめんなさい」と繰り返しても、理沙は帰ってこない。
だから私は、許しを求めることをやめた。
許されないまま、生きていく。
それが私に与えられた罰なのだと思った。
季節は巡る。
春。
刑務所の小さな窓から桜が見えた。
花びらが風に舞う。
私は思い出す。
高校三年の春。
校庭で笑う理沙。
風に揺れるポニーテール。
「侑月って、ほんとロマンチックだね」
あの日の笑顔は、今も変わらず胸の中に残っている。
私はようやく理解した。
愛とは、誰かを自分のものにすることではなかった。
その人が笑って生きていてくれることを願うことだった。
私は、その一番大切なことを最後まで理解できなかった。
だから、理沙を失った。
私は、この手で人を殺した。
その事実は、一生消えない。
だからこそ、私は生きる。
理沙の人生まで背負うことはできない。
罪が消えることもない。
それでも、自分が犯した罪から目を逸らさず、生き続ける。
苦しくても。
泣きたくても。
逃げたくなっても。
生きる。
それが、私に残された償いだから。
窓の向こうでは、海が静かに光っていた。
あの日、私を飲み込もうとした海は、何も語らない。
ただ、穏やかに波を返している。
私は静かに目を閉じる。
理沙。
私は、ようやく分かった。
私があなたを愛していたことは、本当だった。
でも、あれは愛だけではなかった。
孤独も、不安も、執着も、嫉妬も、全部混ざり合って、歪んでしまった感情だった。
私は、その歪みから目を背けた。
だから、あなたを傷つけた。
もう二度と会うことはできない。
それでも私は、生き続ける。
あなたから奪ってしまった未来の重さを忘れないために。
私自身の罪から逃げないために。
そしていつか、あなたに胸を張って謝れる日が来ることを願いながら。
今日も私は、生きている。




