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罪と私  作者: 霜月希侑
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追われる心


 この部屋は静かだった。


 静かすぎるほど静かだった。


 窓の外では、夜の海が変わらぬ波音を響かせている。あの夜も、きっと海はこんなふうに静かだったのだろう。


 私はテーブルの上に置かれた髪留めを手に取る。


 紺色の、小さな花柄の髪留め。


 理沙がいつもポニーテールを結ぶときにつけていたものだ。


 冷たい金属が指先へ伝わる。


 その冷たさだけが、今も私を現実へ引き戻す。


「侑月」


 彼女の声が聞こえた気がした。


 私は目を閉じる。


 あの夜、彼女の首に私の手が触れた瞬間。


 彼女の瞳は、確かに私を見つめていた。


 私は、その瞳に何を見たのだろう。


 赦しだったのか。


 恐怖だったのか。


 それとも、何も映ってはいなかったのか。


 分からない。


 分からないまま、私は今日まで生きてきた。


 その時だった。


 玄関のチャイムが鳴った。


 私は肩を震わせる。


 こんな時間に誰だろう。


 いや、考えるまでもなかった。


 もう来る頃だと思っていた。


 チャイムがもう一度鳴る。


 部屋の静けさが、一瞬で壊れた。


 私は息を潜める。


 足音が聞こえる。


 ゆっくりと階段を上がってくる革靴の音。


 やがて玄関の前で止まった。


 短い沈黙。


 そして、静かな声がした。


「霜村侑月さん。警察です」


 私は髪留めを握る手に力を込める。


 逃げようとは思わなかった。


 逃げられるとも思わなかった。


 ただ、その声を聞いた瞬間、心のどこかで終わったのだと思った。


 もう、理沙はいない。


 もう、私も以前の私ではない。


 ドアの向こうから、再び声が響く。


「少し、お話を聞かせていただけませんか」


 責めるような口調ではなかった。


 静かで、落ち着いた声だった。


 それなのに、その声は私の胸を鋭く切り裂いた。


 私は立ち上がることができなかった。


 膝が重い。


 海の底を歩いているようだった。


 髪留めを見つめる。


 この小さな髪留めだけが、理沙が生きていた証だった。


 その時、不意に幼い頃の記憶がよみがえった。


 幼稚園で描いた一枚の絵。


 母へ見せたくて、私は走って帰った。


「お母さん、見て」


 私は画用紙を差し出した。


 母は夕飯の支度をしながら、一度だけこちらを見る。


「あとにして」


 それだけだった。


 私は黙って画用紙を下ろした。


 褒められたかった。


 見てほしかった。


 それだけだった。


 けれど母は忙しかった。


 きっと悪気はなかったのだろう。


 それでも幼い私には、その一言だけで十分だった。


 私は、見てもらえない人間なのだと思った。


 それから私は、人に何かを求めることをやめた。


 一人で本を読むようになった。


 一人で笑うことを覚えた。


 一人で生きれば傷つかない。


 そう信じていた。


 そんな私の前へ現れたのが理沙だった。


 彼女は私を見つけた。


 私の名前を呼んだ。


 私の話を聞いた。


 笑いかけた。


 誰も見ようとしなかった私を、まっすぐ見つめてくれた。


 だから私は、生きる意味を彼女へ預けてしまった。


 彼女が笑えば嬉しかった。


 彼女が泣けば苦しかった。


 彼女が離れていけば、生きる意味まで失ってしまうような気がした。


 私は最初から間違っていた。


 理沙は、私の人生を背負うために生まれてきた人ではなかった。


 彼女はただ、優しい人だった。


 それだけだった。


 玄関の向こうから、三度目の声が聞こえる。


「霜村さん」


 私はゆっくり立ち上がる。


 足は震えていた。


 髪留めを胸へ握りしめる。


 もう隠れる理由はない。


 私は、自分の罪を言葉にしなければならない。


 誰かに許してほしいからではない。


 理解してほしいからでもない。


 理沙を殺したのが私であるという事実から、もう目を背けたくなかった。


 玄関まで歩く。


 一歩進むたびに、胸の奥で何かが沈んでいく。


 ドアノブへ手を伸ばす。


 金属の冷たさが掌へ伝わった。


 深く息を吸う。


 そして私は、ゆっくりとドアを開けた。


 そこには、二人の刑事が立っていた。





 ドアの向こうには、二人の刑事が立っていた。


 一人は五十代ほどの男だった。白髪が少し混じり、穏やかな目をしている。もう一人は三十代くらいの若い刑事で、手には黒い手帳を持っていた。


 年配の刑事が静かに口を開く。


「霜村侑月さんですね」


 私は小さくうなずいた。


「少し、お話を聞かせていただけますか」


 逃げる理由はなかった。


 私は一歩横へ退き、小さく言った。


「どうぞ」


 二人は靴を脱ぎ、部屋へ入ってくる。


 狭い部屋だった。


 生活感のない机。


 閉め切られたカーテン。


 そして、私の手には理沙の髪留めが握られていた。


 年配の刑事はその髪留めへ目を向けたが、何も言わなかった。


 私は椅子へ腰を下ろす。


 二人も向かいへ座った。


 しばらく誰も話さなかった。


 静かな波音だけが部屋へ流れている。


 やがて刑事が口を開く。


「春木理沙さんとは、長い付き合いだったそうですね」


「高校で出会いました」


 私の声は驚くほど落ち着いていた。


「親友でしたか」


 私は少しだけ笑った。


 親友。


 その言葉は理沙には似合っていた。


 けれど私には違った。


「理沙は、そう思っていたと思います」


「あなたは違ったんですか」


 私は答えられなかった。


 代わりに髪留めを見つめる。


 刑事は急かさなかった。


 その沈黙が、かえって苦しかった。


「私は……」


 喉が乾く。


「私は理沙を愛していました」


 部屋が静まり返る。


 若い刑事がゆっくり手帳を開く。


「恋愛感情という意味ですか」


「はい」


「理沙さんは、その気持ちをご存じだったんですか」


 私は首を横へ振る。


「知りませんでした。伝えられませんでした」


 伝えた瞬間、終わってしまう気がした。


 理沙は優しい。


 きっと困った顔をして、それでも私を傷つけない言葉を探しただろう。


 そんな理沙を見たくなかった。


 だから私は、親友という居場所へ逃げ続けた。


 理沙は何も知らないまま笑っていた。


 私だけが、その笑顔へ意味を求め続けていた。


「理沙は誰にでも優しい人でした」


 私はゆっくり話し始める。


「困っている人を見ると放っておけなくて、人の輪の真ん中にいるような人でした。笑うと周りまで明るくなるんです」


 自然と笑みがこぼれる。


「私は正反対でした。一人で本を読んで、一人で帰って、人と深く関わらないように生きていました」


 それでも理沙は隣へ来た。


『侑月、一緒に帰ろう』


 その一言だけで十分だった。


 誰にも必要とされなかった私を、理沙だけは必要としてくれた。


 そう思ってしまった。


 それが始まりだった。


「卒業しても、私たちは会い続けました」


「ですが理沙さんには恋人ができた」


「はい」


 その瞬間から、私は親友ではいられなくなった。


 理沙は何も変わらない。


 変わったのは私だった。


 彼女が恋人の話をするたびに笑顔が苦しくなった。


 彼女が電話で楽しそうに笑うたび、自分の居場所が消えていく気がした。


「嫉妬していましたか」


「……していました」


 その一言を認めるだけで胸が痛んだ。


「最初は幸せになってほしいと思っていました。本当にそう思っていたんです」


 嘘ではない。


 理沙には笑っていてほしかった。


 けれど、その笑顔の理由が私ではないことだけは耐えられなかった。


「理沙は私へ相談してきました。恋人と喧嘩した日も、泣きながら電話をかけてきました」


 そのたびに私は安心した。


 最低だった。


 彼女が苦しむほど、自分だけを頼ってくれる。


 そう思ってしまった。


 彼女が仲直りすると、また苦しくなった。


 そんなことを何度も繰り返した。


 年配の刑事が静かに尋ねる。


「理沙さんを失いたくなかった」


「違います」


 私は首を振る。


「もう誰にも渡したくなかったんです」


 その言葉を口にした瞬間、自分の醜さが胸へ突き刺さる。


 愛ではなかった。


 独占だった。


 理沙の人生ではなく、自分の心だけを守ろうとしていた。


 私は理沙を見ているようで、自分しか見ていなかった。


「事件の日、何があったんですか」


 私は目を閉じる。


 あの夜がよみがえる。


 部屋の灯り。


 テーブルの上のマグカップ。


 理沙の笑顔。


『彼ね、この前こんなこと言ってさ』


 嬉しそうだった。


 本当に嬉しそうだった。


 その笑顔が、私には遠かった。


 私はそこへ入れなかった。


 理沙の世界には、もう私だけでは足りなかった。


「その時、思ってしまったんです」


 私は震える声で言う。


「最期くらい、私だけを見てほしいって」


 刑事は何も言わない。


「最低ですよね」


 涙が落ちる。


「私は愛していると言いながら、理沙の幸せなんて考えていませんでした。ただ、自分だけを見てほしかった」


 部屋へ波音だけが響く。


 年配の刑事は静かにノートを閉じた。


「あなたは、自分がしたことをどう思っていますか」


 私は髪留めを見つめる。


 理沙はもう笑わない。


 もう名前を呼んでくれない。


 その現実だけが残っている。


「取り返しのつかないことをしました」


 声が震える。


「理沙は私を信じていました。安心すると言ってくれました。その信頼を、私は自分の手で壊しました」


 私は髪留めを机へそっと置く。


「私は理沙を愛していた。でも、その愛は理沙を幸せにする愛じゃなかった」


 窓の外では、海が静かに波を返している。


 理沙はもういない。


 それでも世界は変わらず朝を迎える。


 私はその現実を受け入れなければならない。


 刑事はゆっくり立ち上がった。


「霜村さん、署までご同行をお願いします」


「……はい」


 私は静かに立ち上がる。


 部屋を見回す。


 理沙の髪留め。


 波の音。


 薄暗い部屋。


 ここで私は、自分の罪と向き合い続けてきた。


 そして今日、その時間は終わる。


 私は最後に髪留めへ目を向け、小さく呟いた。


「ごめんね、理沙」


 返事はなかった。


 海だけが、静かに波を寄せ続けていた。


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