愛の壊れる時
夜の海は静かだった。
窓を少し開けると、冷たい風が部屋へ流れ込んでくる。波の音だけが、この部屋に残された時間をゆっくりと刻んでいた。
テーブルの上には、小さな髪留めが置かれている。
紺色の、小さな花柄の髪留め。
理沙が大学に入ってからも、よく髪を結ぶときにつけていたものだ。
私はそれを手に取る。
冷たい金属の感触が指先へ伝わる。
その冷たさだけが、今も現実だった。
「侑月」
ふいに名前を呼ばれた気がして振り返る。
もちろん誰もいない。
理沙は、もういない。
それでも私は、彼女の声だけは忘れることができなかった。
あの夜へ至るまで、私は何度も自分に言い聞かせていた。
彼女は友達だ、と。
それ以上を望んではいけない、と。
けれど、人の心はそんなに都合よくできてはいなかった。
大学へ入ってからも、私たちは変わらず会っていた。
講義が終われば待ち合わせをし、駅前の喫茶店で他愛もない話をする。
休日には映画を観て、海沿いを歩いた。
高校の頃と何も変わらない。
そう思っていた。
変わったのは、理沙の周りだった。
「侑月」
ある日、講義の帰り道。
理沙は少し照れくさそうに笑った。
「私ね、好きな人ができた」
その一言で、時間が止まったような気がした。
私は笑う。
笑えたと思う。
「……そうなんだ」
「うん」
理沙は頬を赤く染めながら続けた。
「同じゼミの人なんだけどね、すごく優しいの」
私は頷いた。
耳には彼女の声が届いているのに、言葉だけが頭へ入ってこない。
心の奥で、小さな何かが音を立ててひび割れていく。
それでも私は笑った。
「よかったね」
その言葉だけは、どうにか絞り出した。
理沙は嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
その笑顔を見て、私は思った。
ああ、この笑顔は私に向けられたものではないのだと。
その日から、理沙の話題は少しずつ変わった。
「昨日ね、一緒にご飯食べたの」
「今度、水族館に行く約束したんだ」
「映画の趣味も同じでね」
私は静かに頷く。
相槌を打つ。
笑う。
友達なら、それでよかった。
それが普通だった。
それなのに、胸の奥では誰かが泣いていた。
帰宅すると、私は机に突っ伏した。
部屋は静かだった。
静かなはずなのに、頭の中では理沙の声だけが何度も響いている。
「好きな人ができた」
その一言だけが、何度も何度も胸を刺した。
私は目を閉じる。
こんなことで苦しくなる資格なんてない。
私は親友なのだから。
それ以上ではないのだから。
何度言い聞かせても、心は少しも納得してくれなかった。
数日後。
理沙から一本の電話がかかってきた。
「侑月、今から会えない?」
声が少し沈んでいた。
私は急いで支度をして駅へ向かう。
待ち合わせ場所にいた理沙は、いつもの笑顔ではなかった。
「どうしたの?」
「喧嘩しちゃった」
そう言って小さく笑う。
「本当にくだらないことなんだけどね」
私たちは近くの公園のベンチへ座った。
理沙はぽつりぽつりと話し始める。
「私ばっかり連絡してる気がして」
「……」
「忙しいって分かってるんだけど、少しくらい会いたいって思っちゃうじゃん」
私は黙って聞いていた。
理沙は時折笑いながら話す。
その笑顔の奥に、小さな寂しさが見えた。
「侑月はちゃんと聞いてくれるから、安心する」
その言葉に、胸が熱くなった。
安心。
またその言葉だった。
彼女はいつも私をそう呼ぶ。
安心する存在。
信頼できる友達。
それだけだった。
それでも、その夜だけは違った。
理沙は帰り際、小さく笑って言った。
「ありがとう。侑月がいてくれて本当によかった」
その一言だけで、私は救われた気がした。
彼女は恋人のもとへ帰る。
私は一人、夜道を歩く。
それなのに、不思議と心は満たされていた。
彼女は困ったとき、私を選んでくれた。
私はまだ、彼女の特別でいられる。
そんな都合のいい解釈を、私は信じようとしていた。
夜風が頬を撫でる。
見上げた空には、星が静かに瞬いていた。
私は知らなかった。
この小さな希望が、やがて私自身を壊していくことを。
そして、理沙を失う未来が、もうすぐそこまで近づいていることを。
秋が深まる頃には、理沙はまた笑うようになっていた。
彼氏と仲直りしたのだと、会ってすぐに分かった。
待ち合わせ場所に現れた彼女は、髪を揺らしながら私に手を振った。
「侑月!」
その笑顔は眩しかった。
私に向けられているはずなのに、その奥には別の誰かがいた。
「ごめんね。この前はいっぱい話聞いてもらっちゃって」
「全然気にしてないよ」
「仲直りしたんだ」
その一言だけで十分だった。
私は笑顔を崩さないように、小さく頷いた。
「そっか。よかったね」
「うん!」
理沙は本当に嬉しそうだった。
彼女は昔からそういう人だった。
嬉しいことがあれば全力で笑い、悲しいことがあれば隠さず泣く。
誰にでも分け隔てなく手を差し伸べる。
教室で一人でいる子を見つければ自然と隣に座り、落ち込んでいる人がいれば「大丈夫?」と声をかける。
それは高校の頃から何一つ変わっていなかった。
だからきっと、私にも話しかけたのだ。
特別だったわけではない。
理沙にとっては、困っている人を放っておけなかっただけなのだろう。
その優しさを、私は愛だと勘違いした。
それだけだった。
私は昔から、人と深く関わることが苦手だった。
誰かと親しくなれば、その人を失う日が来る。
そう思うだけで怖かった。
だから本を読んでいた。
一人でいることを選んだ。
期待しなければ傷つかない。
そう信じていた。
けれど、理沙だけは違った。
彼女は私の世界へ土足で入ってきた。
「侑月って、本ばっかり読んでるよね」
そう言って笑った日から、私の世界は少しずつ色を変えていった。
彼女と笑う時間が増えた。
放課後が楽しみになった。
朝、学校へ行く理由ができた。
私は、生きる理由を彼女一人に預けてしまった。
それが間違いだった。
理沙は誰か一人のために生きる人ではない。
彼女は家族を大切にした。
友達も大切にした。
恋人も大切にした。
そして私のことも、大切にしてくれた。
だから彼女は、誰か一人だけを選ぶことができなかった。
一方で私は違った。
私の世界は狭かった。
その中心には、いつも理沙しかいなかった。
理沙が笑えば嬉しい。
理沙が泣けば苦しい。
理沙が他の誰かを見るだけで、胸が締めつけられる。
私にとって世界とは、理沙そのものだった。
だから私は、彼女の恋人を知ろうともしなかった。
名前も。
顔も。
どんな人なのかも。
知ってしまえば、その人が本当に理沙を幸せにしていることを認めなければならない。
そんな現実を、私は受け入れられなかった。
ある日、理沙は嬉しそうに写真を見せてきた。
「見て見て。水族館行ったんだ」
画面には理沙が笑っていた。
隣には恋人がいた。
肩を寄せ合い、幸せそうに笑っていた。
私は笑顔のまま写真を見つめる。
「楽しそうだね」
「でしょ?」
理沙は無邪気に笑った。
「今度は侑月とも行こうね」
その言葉は優しかった。
優しすぎた。
私は恋人の代わりにはなれない。
けれど、理沙はそんなことも考えずに笑う。
誰も傷つけるつもりなどない。
だからこそ残酷だった。
帰宅した私は、何も食べられなかった。
スマートフォンを開いては閉じる。
理沙との写真を見る。
高校時代の制服姿。
文化祭。
海辺。
雪の日。
その一枚一枚に写る笑顔が、胸を締めつけた。
私は何度もメッセージを書いた。
『私だけを見てほしい。』
そう打っては消した。
『会いたい。』
それも消した。
『理沙が好き。』
送れなかった。
親友という関係を壊す勇気はなかった。
だから私は、何も言えないまま笑い続けた。
冬が近づく頃、理沙はまた私の部屋へやって来た。
「今日ね、また喧嘩しちゃった」
苦笑いを浮かべながら、ソファへ腰を下ろす。
「ほんと私たち、喧嘩ばっかりだよ」
そう言いながら笑う。
その姿を見て、私は思った。
別れればいいのに。
その考えが浮かんだ瞬間、自分でも驚いた。
そんなことを願う人間ではなかったはずなのに。
理沙は温かいコーヒーを両手で包み込みながら、小さく呟いた。
「でもね」
私は顔を上げる。
「やっぱり好きなんだ」
その一言が、静かな部屋へ落ちた。
私は返事ができなかった。
彼女は少し照れくさそうに笑う。
「喧嘩してもね、顔を見ると許しちゃうんだ」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
私も同じだった。
どれだけ苦しくても。
どれだけ傷ついても。
理沙が笑えば、すべて許してしまう。
なのに、その笑顔は私へ向けられたものではない。
私は初めて、自分の愛が壊れ始めていることを知った。
愛しているだけでは足りなかった。
隣にいるだけでも足りなかった。
私は彼女の一番になりたかった。
彼女の帰る場所になりたかった。
彼女の世界の中心になりたかった。
そんな願いは、もう愛ではなかった。
それでも私は止められなかった。
理沙はコーヒーを飲み終え、穏やかに笑った。
「侑月はさ」
「うん?」
「ずっと変わらないね」
私は少しだけ笑った。
「そうかな」
「うん。だから安心する」
安心。
またその言葉だった。
私は欲しかった言葉ではない。
それでも、その言葉しか彼女はくれなかった。
窓の外では、冬の風が海を揺らしていた。
私はその音を聞きながら、静かに目を閉じる。
理沙は何も悪くない。
優しかっただけだ。
私を大切な友達として愛してくれていただけだ。
壊れていたのは、最初から私のほうだった。
この頃にはもう、私の愛は静かに形を変え始めていた。
相手の幸せを願うものではなく。
相手を失いたくないという恐怖でもなく。
彼女を誰にも渡したくないという、暗く冷たい執着へと。
その執着が、やがて私を取り返しのつかない場所へ連れていくことを、私はまだ知らなかった。




