愛の形
冬の朝は静かだった。
窓の外には薄く雪が積もり、校庭は白い光に包まれている。吐く息は白く、教室の窓ガラスには小さな水滴が並んでいた。
理沙は両手をこすり合わせながら、私の席へやって来る。
「侑月、おはよう。寒すぎない?」
そう言って私の机に頬杖をつき、笑う。
私は鞄から小さなカイロを取り出して差し出した。
「使う?」
「え、いいの?」
「……うん」
理沙は嬉しそうに受け取ると、胸の前で握りしめた。
「あったかい」
その笑顔を見ているだけで、胸の奥まで温かくなる気がした。
いつからだろう。
彼女の笑顔一つで、その日の気分が決まるようになったのは。
授業中も、私は何度も窓際の理沙を見てしまう。
教師の声は耳に入らない。
窓の外を眺める理沙の横顔ばかりが目に映る。
冬の陽射しを受けた睫毛が白く光っていた。
その横顔は静かな海のようで、見ているだけで心が穏やかになった。
昼休み。
理沙は私の机まで走ってきた。
「侑月、お腹空いた!」
「……さっきまで四時間目だったじゃん」
「だから空いたの」
そう言って笑う。
私も少しだけ笑ってしまう。
屋上へ続く階段に並んで座り、弁当箱を開く。
「侑月のお弁当、いつも美味しそう」
「普通だよ」
「一口ちょうだい」
「……いいよ」
卵焼きを箸でつまみ、理沙へ差し出す。
彼女は嬉しそうに口へ運び、目を丸くした。
「おいしい!」
「そんな大げさな」
「大げさじゃないって」
そう言って笑う顔を見ながら、私は思う。
こんな時間が、ずっと続けばいい。
そんな願いを抱いたのは初めてだった。
放課後になると、理沙は当然のように私を待っている。
「今日も一緒に帰ろ」
「うん」
校門を出ると、小さな雪が降り始めていた。
「今年は積もるかな」
理沙は空を見上げる。
白い息が空へ溶けていく。
「侑月、雪好き?」
「……静かだから」
「あ、分かる」
理沙は嬉しそうに笑う。
「世界が少しだけ優しくなる気がする」
私は返事をしなかった。
その代わり、彼女の言葉を胸の中で何度も繰り返した。
世界が優しい。
そんなふうに思えたことは、一度もなかった。
けれど理沙と歩いている時間だけは、不思議とそう思えた。
駅前まで来ると、理沙が立ち止まる。
「寒い」
そう言って両手を息で温める。
私は自分の手袋を外し、彼女へ差し出した。
「え、侑月は?」
「私は平気」
「嘘、絶対寒いじゃん」
理沙は少し考えてから笑った。
「じゃあ半分こ」
そう言って私の右手を取る。
驚くほど自然な動作だった。
彼女の手は少し冷たくて、それでもすぐに温かくなった。
指先が触れ合う。
その小さな温もりだけで、胸の奥が満たされていく。
私は、生まれて初めて思った。
生きていてよかった、と。
その感情があまりにも眩しくて、私は少し怖くなった。
喫茶店の窓には雪が映っていた。
帰るにはまだ少し早い。
「ねぇ、入っていこうよ」
理沙に誘われ、小さな喫茶店へ入る。
店内には静かな音楽が流れていた。
二人並んで窓際へ座る。
理沙はココアを注文し、私はホットコーヒーを頼んだ。
「侑月って苦いの好きだよね」
「……甘いのは苦手」
「私は逆」
ココアを一口飲んだ理沙の口元に、白い泡がつく。
私は思わず笑ってしまった。
「え、何?」
「……ついてる」
「どこ?」
「そこ」
指で自分の口元を示すと、理沙は照れくさそうに笑った。
「もう、言ってよ」
私は紙ナプキンを差し出す。
「ありがとう」
その何気ないやり取りさえ、大切だった。
この時間が終わらなければいい。
時計の針が止まってしまえばいい。
そんなことを、本気で願っていた。
店を出る頃には、雪は少し強くなっていた。
理沙は白い息を吐きながら、空を見上げる。
「侑月」
「なに?」
「卒業しても、ずっと友達でいてね」
私は立ち止まる。
胸の奥が静かに揺れた。
「……うん」
その一言を返すだけで精一杯だった。
友達。
その言葉は嬉しかった。
けれど、どこか物足りなくも感じた。
その理由を、私はまだ知らない。
ただ、理沙の隣を歩く時間だけは失いたくない。
それだけは、誰よりも強く思っていた。
雪は静かに降り続いていた。
その白さは、私の胸に芽生え始めた小さな感情を覆い隠すには、あまりにも頼りなかった。
冬休みが明けても、雪はまだ町に残っていた。
朝、教室の窓から校庭を見ると、誰かが雪だるまを作っている。
理沙はその様子を見て、小さく笑った。
「子どもみたい」
そう言いながら、どこか羨ましそうな目をしていた。
「侑月、帰りに寄り道しない?」
「どこに?」
「秘密」
放課後、理沙は私の手首を軽く掴んだ。
その手はもう、私にとって特別なものになっていた。
商店街を抜け、小さな公園へ向かう。
そこには、雪を被ったブランコが静かに揺れていた。
「昔ね……」
理沙はブランコへ腰掛ける。
「嫌なことがあると、よくここに来てたの」
私は隣に座る。
軋む音だけが静かに響く。
「侑月は?」
「……私は、本を読んでた」
「やっぱり」
理沙は笑った。
「でもね…」
少しだけ真面目な顔になる。
「侑月は、一人が好きなんじゃなくて、一人でいるしかなかった人なんだって思う」
私は息を止めた。
そんなことを言われたのは初めてだった。
誰にも気づかれたことのない場所を、そっと撫でられたような気がした。
「……どうして?」
「なんとなく」
理沙は笑う。
「私、勘だけはいいから」
私は何も言えなかった。
その代わり、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じていた。
理沙はいつもそうだった。
私が隠しているものを、無理に暴こうとはしない。
ただ、隣にいてくれる。
それだけでよかった。
だから私は、少しずつ彼女に心を預けるようになっていった。
ある日の昼休み。
理沙はクラスの女子たちに囲まれて笑っていた。
楽しそうだった。
私は窓際で本を開く。
ページをめくる。
一行目を読む。
もう一度、一行目を読む。
文字が頭に入ってこない。
「侑月」
顔を上げると、理沙が駆け寄ってきた。
「ごめんね。待たせちゃった」
「……待ってないよ」
「今日も一緒に食べよう」
そう言って、私の腕を引く。
その瞬間だけは嬉しかった。
けれど、さっきまで誰かと笑っていた理沙の笑顔が頭から離れない。
胸の奥が、小さく痛んだ。
放課後。
駅まで歩く途中で、理沙は向こうから歩いてきた男子生徒に声をかけられた。
「春木、一緒に帰ろうぜ」
「あ、ごめん。また今度!」
理沙は笑って断り、私の隣へ戻ってくる。
「待った?」
「……ううん」
私はそう答えた。
それなのに。
どうして断ってくれたことに安心したのだろう。
その安心に気づいた瞬間、自分自身が少し怖くなった。
帰り道。
理沙は私の歩幅に合わせて歩いてくれる。
「侑月って歩くの少し速いよね」
「そうかな?」
「うん。でも、今日は合わせてくれてる」
私は何も答えなかった。
無意識だった。
理沙の歩く速さに合わせることが、いつの間にか当たり前になっていた。
駅前で信号を待っていると、小さな女の子が転びそうになった。
理沙はとっさに駆け寄り、その子の手を握る。
「大丈夫?」
母親は何度も頭を下げた。
理沙は照れくさそうに笑う。
「気をつけて帰ってね」
その笑顔は、私だけに向けられるものではなかった。
誰にでも向けられる笑顔だった。
分かっている。
そんなことは最初から分かっていた。
それでも。
胸の奥で何かが軋む。
その音は、日に日に大きくなっていた。
夜。
机に向かってノートを開く。
勉強をするつもりだった。
けれど、気づけば私は理沙の名前を書いていた。
春木理沙。
春木理沙。
春木理沙。
何度も。
何度も。
気づいて慌ててページを破る。
丸めてゴミ箱へ投げる。
こんな自分は、おかしい。
ただの友達なのに。
そう言い聞かせても、心は少しも納得しなかった。
卒業まで、あと二か月。
理沙は進学先のパンフレットを眺めながら言った。
「私たち、離れても会えるよね?」
私は笑って頷いた。
「……うん」
本当は違った。
離れたくなかった。
毎日顔を見たい。
毎日声を聞きたい。
毎日隣を歩きたい。
その願いは、友達に向けるものではないことくらい、自分でも分かっていた。
だから私は口にしなかった。
口にした瞬間、この穏やかな時間が壊れてしまう気がしたから。
帰り道、理沙は空を見上げた。
「もうすぐ春だね」
雪解けの雫が屋根から落ちる。
冬は終わろうとしていた。
けれど私の胸の中では、静かに別の季節が始まっていた。
それは誰にも祝福されない感情だった。
温かなはずなのに苦しくて、幸せなはずなのに痛かった。
理沙が笑えば嬉しい。
けれど、その笑顔が誰かに向けられるだけで、心が締めつけられる。
私はその感情に、まだ名前をつけることができなかった。
愛なのか。
執着なのか。
それとも、そのどちらでもない何かなのか。
ただ一つだけ分かっていた。
理沙のいない未来だけは、どうしても想像できなかった。




