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罪と私  作者: 霜月希侑
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3/7

愛の形


 冬の朝は静かだった。


 窓の外には薄く雪が積もり、校庭は白い光に包まれている。吐く息は白く、教室の窓ガラスには小さな水滴が並んでいた。


 理沙は両手をこすり合わせながら、私の席へやって来る。


「侑月、おはよう。寒すぎない?」


 そう言って私の机に頬杖をつき、笑う。


 私は鞄から小さなカイロを取り出して差し出した。


「使う?」


「え、いいの?」


「……うん」


 理沙は嬉しそうに受け取ると、胸の前で握りしめた。


「あったかい」


 その笑顔を見ているだけで、胸の奥まで温かくなる気がした。


 いつからだろう。


 彼女の笑顔一つで、その日の気分が決まるようになったのは。


 授業中も、私は何度も窓際の理沙を見てしまう。


 教師の声は耳に入らない。


 窓の外を眺める理沙の横顔ばかりが目に映る。


 冬の陽射しを受けた睫毛が白く光っていた。


 その横顔は静かな海のようで、見ているだけで心が穏やかになった。


 昼休み。


 理沙は私の机まで走ってきた。


「侑月、お腹空いた!」


「……さっきまで四時間目だったじゃん」


「だから空いたの」


 そう言って笑う。


 私も少しだけ笑ってしまう。


 屋上へ続く階段に並んで座り、弁当箱を開く。


「侑月のお弁当、いつも美味しそう」


「普通だよ」


「一口ちょうだい」


「……いいよ」


 卵焼きを箸でつまみ、理沙へ差し出す。


 彼女は嬉しそうに口へ運び、目を丸くした。


「おいしい!」


「そんな大げさな」


「大げさじゃないって」


 そう言って笑う顔を見ながら、私は思う。


 こんな時間が、ずっと続けばいい。


 そんな願いを抱いたのは初めてだった。


 放課後になると、理沙は当然のように私を待っている。


「今日も一緒に帰ろ」


「うん」


 校門を出ると、小さな雪が降り始めていた。


「今年は積もるかな」


 理沙は空を見上げる。


 白い息が空へ溶けていく。


「侑月、雪好き?」


「……静かだから」


「あ、分かる」


 理沙は嬉しそうに笑う。


「世界が少しだけ優しくなる気がする」


 私は返事をしなかった。


 その代わり、彼女の言葉を胸の中で何度も繰り返した。


 世界が優しい。


 そんなふうに思えたことは、一度もなかった。


 けれど理沙と歩いている時間だけは、不思議とそう思えた。


 駅前まで来ると、理沙が立ち止まる。


「寒い」


 そう言って両手を息で温める。


 私は自分の手袋を外し、彼女へ差し出した。


「え、侑月は?」


「私は平気」


「嘘、絶対寒いじゃん」


 理沙は少し考えてから笑った。


「じゃあ半分こ」


 そう言って私の右手を取る。


 驚くほど自然な動作だった。


 彼女の手は少し冷たくて、それでもすぐに温かくなった。


 指先が触れ合う。


 その小さな温もりだけで、胸の奥が満たされていく。


 私は、生まれて初めて思った。


 生きていてよかった、と。


 その感情があまりにも眩しくて、私は少し怖くなった。


 喫茶店の窓には雪が映っていた。


 帰るにはまだ少し早い。


「ねぇ、入っていこうよ」


 理沙に誘われ、小さな喫茶店へ入る。


 店内には静かな音楽が流れていた。


 二人並んで窓際へ座る。


 理沙はココアを注文し、私はホットコーヒーを頼んだ。


「侑月って苦いの好きだよね」


「……甘いのは苦手」


「私は逆」


 ココアを一口飲んだ理沙の口元に、白い泡がつく。


 私は思わず笑ってしまった。


「え、何?」


「……ついてる」


「どこ?」


「そこ」


 指で自分の口元を示すと、理沙は照れくさそうに笑った。


「もう、言ってよ」


 私は紙ナプキンを差し出す。


「ありがとう」


 その何気ないやり取りさえ、大切だった。


 この時間が終わらなければいい。


 時計の針が止まってしまえばいい。


 そんなことを、本気で願っていた。


 店を出る頃には、雪は少し強くなっていた。


 理沙は白い息を吐きながら、空を見上げる。


「侑月」


「なに?」


「卒業しても、ずっと友達でいてね」


 私は立ち止まる。


 胸の奥が静かに揺れた。


「……うん」


 その一言を返すだけで精一杯だった。


 友達。


 その言葉は嬉しかった。


 けれど、どこか物足りなくも感じた。


 その理由を、私はまだ知らない。


 ただ、理沙の隣を歩く時間だけは失いたくない。


 それだけは、誰よりも強く思っていた。


 雪は静かに降り続いていた。


 その白さは、私の胸に芽生え始めた小さな感情を覆い隠すには、あまりにも頼りなかった。





 冬休みが明けても、雪はまだ町に残っていた。


 朝、教室の窓から校庭を見ると、誰かが雪だるまを作っている。


 理沙はその様子を見て、小さく笑った。


「子どもみたい」


 そう言いながら、どこか羨ましそうな目をしていた。


「侑月、帰りに寄り道しない?」


「どこに?」


「秘密」


 放課後、理沙は私の手首を軽く掴んだ。


 その手はもう、私にとって特別なものになっていた。


 商店街を抜け、小さな公園へ向かう。


 そこには、雪を被ったブランコが静かに揺れていた。


「昔ね……」


 理沙はブランコへ腰掛ける。


「嫌なことがあると、よくここに来てたの」


 私は隣に座る。


 軋む音だけが静かに響く。


「侑月は?」


「……私は、本を読んでた」


「やっぱり」


 理沙は笑った。


「でもね…」


 少しだけ真面目な顔になる。


「侑月は、一人が好きなんじゃなくて、一人でいるしかなかった人なんだって思う」


 私は息を止めた。


 そんなことを言われたのは初めてだった。


 誰にも気づかれたことのない場所を、そっと撫でられたような気がした。


「……どうして?」


「なんとなく」


 理沙は笑う。


「私、勘だけはいいから」


 私は何も言えなかった。


 その代わり、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じていた。


 理沙はいつもそうだった。


 私が隠しているものを、無理に暴こうとはしない。


 ただ、隣にいてくれる。


 それだけでよかった。


 だから私は、少しずつ彼女に心を預けるようになっていった。


 ある日の昼休み。


 理沙はクラスの女子たちに囲まれて笑っていた。


 楽しそうだった。


 私は窓際で本を開く。


 ページをめくる。


 一行目を読む。


 もう一度、一行目を読む。


 文字が頭に入ってこない。


「侑月」


 顔を上げると、理沙が駆け寄ってきた。


「ごめんね。待たせちゃった」


「……待ってないよ」


「今日も一緒に食べよう」


 そう言って、私の腕を引く。


 その瞬間だけは嬉しかった。


 けれど、さっきまで誰かと笑っていた理沙の笑顔が頭から離れない。


 胸の奥が、小さく痛んだ。


 放課後。


 駅まで歩く途中で、理沙は向こうから歩いてきた男子生徒に声をかけられた。


「春木、一緒に帰ろうぜ」


「あ、ごめん。また今度!」


 理沙は笑って断り、私の隣へ戻ってくる。


「待った?」


「……ううん」


 私はそう答えた。


 それなのに。


 どうして断ってくれたことに安心したのだろう。


 その安心に気づいた瞬間、自分自身が少し怖くなった。


 帰り道。


 理沙は私の歩幅に合わせて歩いてくれる。


「侑月って歩くの少し速いよね」


「そうかな?」


「うん。でも、今日は合わせてくれてる」


 私は何も答えなかった。


 無意識だった。


 理沙の歩く速さに合わせることが、いつの間にか当たり前になっていた。


 駅前で信号を待っていると、小さな女の子が転びそうになった。


 理沙はとっさに駆け寄り、その子の手を握る。


「大丈夫?」


 母親は何度も頭を下げた。


 理沙は照れくさそうに笑う。


「気をつけて帰ってね」


 その笑顔は、私だけに向けられるものではなかった。


 誰にでも向けられる笑顔だった。


 分かっている。


 そんなことは最初から分かっていた。


 それでも。


 胸の奥で何かが軋む。


 その音は、日に日に大きくなっていた。


 夜。


 机に向かってノートを開く。


 勉強をするつもりだった。


 けれど、気づけば私は理沙の名前を書いていた。


 春木理沙。


 春木理沙。


 春木理沙。


 何度も。


 何度も。


 気づいて慌ててページを破る。


 丸めてゴミ箱へ投げる。


 こんな自分は、おかしい。


 ただの友達なのに。


 そう言い聞かせても、心は少しも納得しなかった。


 卒業まで、あと二か月。


 理沙は進学先のパンフレットを眺めながら言った。


「私たち、離れても会えるよね?」


 私は笑って頷いた。


「……うん」


 本当は違った。


 離れたくなかった。


 毎日顔を見たい。


 毎日声を聞きたい。


 毎日隣を歩きたい。


 その願いは、友達に向けるものではないことくらい、自分でも分かっていた。


 だから私は口にしなかった。


 口にした瞬間、この穏やかな時間が壊れてしまう気がしたから。


 帰り道、理沙は空を見上げた。


「もうすぐ春だね」


 雪解けの雫が屋根から落ちる。


 冬は終わろうとしていた。


 けれど私の胸の中では、静かに別の季節が始まっていた。


 それは誰にも祝福されない感情だった。


 温かなはずなのに苦しくて、幸せなはずなのに痛かった。


 理沙が笑えば嬉しい。


 けれど、その笑顔が誰かに向けられるだけで、心が締めつけられる。


 私はその感情に、まだ名前をつけることができなかった。


 愛なのか。


 執着なのか。


 それとも、そのどちらでもない何かなのか。


 ただ一つだけ分かっていた。


 理沙のいない未来だけは、どうしても想像できなかった。


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