罪の重さ
この部屋は静かすぎる。
窓の外では、海が何事もなかったように波を寄せている。その音だけが、この世界がまだ動いていることを私に教えていた。
私は床に座り込んだまま、テーブルの上に置かれた髪留めを見つめる。
紺色の、小さな花柄の髪留め。
春木理沙がよくつけていたものだ。
もう彼女はいない。
それでも私は、それを捨てることができない。
指先でそっと撫でると、冷たい金具が微かに震えた気がした。
「侑月」
波の音に混じって、彼女の声が聞こえたような気がして顔を上げる。
もちろん誰もいない。
いるはずがない。
理沙は、私が殺した。
あの夜、私の両手は彼女の首に触れ、彼女の体温は少しずつ失われていった。
彼女は最後まで私を見つめていた。
あの瞳が赦しだったのか、憎しみだったのか、今でもわからない。
ただ一つだけ確かなことがある。
彼女の最後に映った人間は、私だった。
私はその事実だけを抱えて、生きている。
玄関の向こうから、誰かが階段を上る音がした。
警察かもしれない。
隣人かもしれない。
私は耳を澄ませたが、やがて足音は遠ざかっていった。
まだ時間は残されているらしい。
私はゆっくり目を閉じる。
思い出すのは、いつもあの日だった。
高校へ入学して間もない春。
風が校庭の桜をさらい、花びらが窓から教室へ舞い込んできた。
私は一番後ろの窓際の席で、本を読んでいた。
昔から一人でいることが好きだった。
いや、好きだったというより、そのほうが楽だった。
人と深く関われば、その人を失ったとき苦しくなる。
だから最初から近づかなければいい。
それが私なりの生き方だった。
休み時間になれば教室は笑い声で満ちる。
誰かが机を寄せ合い、誰かがお菓子を配り、誰かが恋愛の話をしている。
私はその輪の外で、本のページをめくる音だけを聞いていた。
それで十分だった。
そう思っていた。
「ねえ」
不意に影が落ちた。
本から顔を上げると、一人の女子生徒が私を覗き込んでいた。
肩まで伸びた黒髪が春風に揺れている。
柔らかな笑顔だった。
「侑月って、いつも本読んでるよね」
初めて話しかけられた。
私は何も答えられなかった。
「何読んでるの?」
彼女はためらうことなく私の隣に腰を下ろした。
私は慌てて本を閉じる。
「……小説」
「へえ。面白い?」
「……うん」
「貸して」
私は思わず彼女を見た。
普通なら、こんな返事をする人はいない。
彼女はくすりと笑った。
「読書ってあんまりしないからさ。侑月の好きな本なら面白いのかなって」
その笑顔は、春の日差しによく似ていた。
眩しくて、温かくて、どこか危うい。
「私、春木理沙」
そう言って彼女は手を差し出した。
「よろしくね」
私はしばらくその手を見つめた。
握ってしまえば、何かが変わる気がした。
人と関われば未練が生まれる。
その考えだけは、ずっと変わらなかった。
それなのに。
私はゆっくりと、その手を握った。
「……霜村侑月」
理沙は嬉しそうに笑った。
「知ってる」
その一言に、私は少しだけ笑ってしまった。
たぶん、高校へ入って初めて笑った。
その小さな笑顔が、私の人生を変えてしまうことを、このときの私はまだ知らなかった。
それからというもの、理沙は毎日のように私の席へやって来た。
「おはよう、侑月」
朝、教室へ入ると一番に声をかけてくる。
休み時間になれば、私の机に肘をついて他愛もない話を始める。
「ねえ、昨日貸してくれた本、面白かった」
「……そう」
「続きもある?」
「あるよ」
「じゃあ今日も貸して」
私は頷き、本を鞄から取り出す。
誰かに自分の好きなものを貸すなんて、それまでの私には考えられなかった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
理沙は本を受け取るたび、子どものように目を輝かせた。
その表情を見るたび、胸の奥が少しだけ温かくなる。
そんな感覚を知ったのは初めてだった。
昼休みになると、理沙は決まって私の席へやって来る。
「侑月、お昼一緒に食べよう」
私は断れなかった。
断りたいわけではなかった。
ただ、人と並んで食事をすることに慣れていなかっただけだ。
屋上へ続く階段に腰を下ろし、二人で弁当を開く。
理沙は卵焼きを頬張りながら笑う。
「侑月って静かだけど、一緒にいて落ち着く」
私は返事に困った。
そんなことを言われたのは初めてだった。
「私、おしゃべりだからさ。迷惑じゃない?」
私は小さく首を振る。
「……迷惑じゃないよ」
その言葉だけで、理沙は花が咲くように笑った。
「よかった」
その笑顔を見ていると、世界は案外悪くないのかもしれないと思えた。
物心ついた頃から、この世に執着しないよう生きてきた。
誰とも深く関わらず、静かに時が過ぎるのを待つ。
それが私には一番楽だった。
なのに理沙は、何のためらいもなく私の世界へ入ってきた。
まるで鍵のかかっていない部屋へ迷い込む子どものように。
ある日の放課後。
私は図書室で本を借りて帰ろうとしていた。
「侑月」
振り向くと理沙が立っていた。
「一緒に帰ろう」
その一言が嬉しいと思ってしまった。
駅まで続く坂道を並んで歩く。
春の風が制服の裾を揺らし、桜の花びらが私たちの足元へ舞い落ちる。
「侑月ってさ」
「……なに?」
「最初は怖い人かと思ってた」
私は思わず足を止めた。
「でも違った」
理沙は笑う。
「優しい人だった」
その言葉に胸が締めつけられた。
優しい。
そんなふうに言われたことは一度もなかった。
私はただ、人を避けていただけだ。
傷つきたくなくて。
失いたくなくて。
だから最初から何も持たないようにしていただけなのに。
理沙はそんな私を、優しいと言った。
帰り道、公園の前を通りかかる。
小さな男の子が転んで泣いていた。
理沙は迷うことなく駆け寄る。
「大丈夫?」
砂のついた膝をハンカチで拭き、小さく笑いかける。
「ほら、痛いの痛いの飛んでいけ」
男の子は泣き止み、照れくさそうに笑った。
理沙も笑う。
その光景を見ながら、私は思った。
この人は誰にでも優しい。
だから私にも優しいだけなのだと。
そう思えば楽になるはずだった。
なのに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
その痛みが何なのか、この頃の私はまだ知らなかった。
数日後、教室へ入ると理沙は別の女子生徒たちに囲まれて笑っていた。
楽しそうだった。
私と話している時と同じ笑顔だった。
私は自分の席へ座り、本を開く。
文字が頭に入らない。
何度読み返しても、一行も読めなかった。
「侑月!」
理沙が駆け寄ってくる。
「ごめんね、待たせちゃった」
「……待ってないよ」
「今日も一緒に帰ろ」
私は頷く。
それだけで嬉しかった。
それだけで十分なはずだった。
それなのに。
理沙が誰かと笑うたび、胸の奥で小さな棘が刺さるようになった。
その棘はまだ小さく、痛みとも呼べないほどの違和感だった。
私は、その違和感に名前をつけなかった。
つけてしまえば、もう後戻りできない気がしたからだ。
放課後、二人で歩く帰り道。
夕焼けに染まる街を見ながら、理沙はぽつりと言った。
「侑月と友達になれてよかった」
私は足を止める。
「私ね、侑月といると安心する」
その言葉は、静かな海へ落ちる一粒の雨のように、私の心へ沈んでいった。
嬉しかった。
それ以上に、怖かった。
この温もりを失ったら、私はどうなるのだろう。
そんなことを考えてしまった自分に、小さく笑う。
まだ何も始まっていない。
それなのに、私はもう失うことを恐れていた。
あの春の日に握った理沙の手は、私を孤独から連れ出した。
そして同時に、私へ初めて「失う恐怖」を教えた。
あの時、私は気づくべきだった。
人を愛するということは、その人を失う怖さまで抱きしめることなのだと。
けれど、その頃の私はまだ知らなかった。
この小さな痛みが、やがて誰にも止められないほど大きな罪へと姿を変えていくことを。




