2、配慮という言葉
皇后候補である葉青に過度な生薬を与えたことで、侍女の宋舞は解雇された。
『私は何も悪いことはしていない。お嬢さまがお元気になって一刻も早く皇后となられるように。私の献身を理解もできぬのか』
宋舞は、閉ざされた門を叩きながら訴えた。
『これは璠欣然の罠だ。私が再び皇后の侍女となることを、あの女は妬み嫉んでいるのだ。だから再びこの家に薬命司としてやって来たのだ。薬命司を捕まえよ!』
声が嗄れるまで宋舞が叫び続けても、門番はぴくりとも動かない。業を煮やした当主に追い払われ、宋舞はようやく立ち去ったという。繰り返し怨嗟の言葉を吐きながら。
過労も癒え、起き上がれるようになった瑞雪は仕事に戻った。
ほんの数日離れていただけで、薬命司の部屋には生薬の匂いと風を通さぬこもった匂いが混じっていた。
「今月は給金が減っちゃうなぁ」
やれやれ、と肩を落としながら紙窓を開く。
ぼんやりしていたので気づかなかった。窓の外に星宇が立っていたことに。
「今日から仕事に戻るのか」
気難しそうな表情で、腕を組んだ星宇が問いかけてくる。黒い衣の上下に、頭にも黒い幞頭をかぶっているので、まるで黒い塊だ。
「うわっ、びっくりした。いらしてたんですか?」
「先日は失礼をした」
何のことだろう、と瑞雪は考えた。
「ああ、もしかしてわたしの寝台で熟睡していたことですか? ぜ……」
窓の桟を越えて腕を伸ばした星宇が、瑞雪の口をふさぐ。大きな手で覆われて、瑞雪の「全裸で」という言葉は「もがもが」という音にしかならなかった。
「瑞雪。配慮という言葉を知っているか?」
「ひってはふ」
「ならば常日頃から配慮した方がいい。欣然殿に叩き込んでもらおうか? 君はまだ小さかったから欣然殿に厳しく躾けられていなかっただけだぞ」
星宇は眉根を寄せていた。
立派な武官や護衛になれるくらい教育してもらえてよかったね、とは口が裂けても言えない。
天雷の時はあんなにも可愛いのに。性格は見た目に比例するのだろうか。
「……仕事の開始までまだ少しあるだろう? お茶でもしないか。陛下から菓子をもらったんだ」
袋を持った手を、星宇は掲げて見せた。
「わたしと星宇さんが、ですか?」
「何か問題でも?」
相変わらずの表情筋の硬さだ。不愛想を絵にかいたら星宇の顔になるだろう。
「お湯を沸かします。どうぞ入ってください」
茶葉は何がいいだろうか、と瑞雪は私物を入れた藤の籠を開ける。
「金盞花のお茶なら、飛仙でも飲めると思うけど」
金盞花は皮膚の炎症を抑えたり、毒を輩出する安全な花で動物も摂取できる。
「ここで変化などせぬ。人と同じもので大丈夫だ」
それもそうか。土砂崩れに巻き込まれて人の姿をとなったのだ。長い旅路の途中で人と同じものを食べないと過ごせなかったはず。
窓の桟に手をかけた星宇が軽く跳躍する。一度桟に足をかけて、そこから床へと着地した。
美しい姿だ。瑞雪は思わず拍手をしてしまった。
「そこは、うっとりしてほしいものだが」
「いやぁ、立派になったね。天雷」
「……どうも君といると調子が狂うな。俺は人として十数年は生きていたのだぞ」
「うんうん、頑張った頑張った」
根負けした星宇はうなじを掻いた。常に氷雪に包まれたような冷ややかな表情なのに、頰が赤く染まっている。
「参ったな。瑞雪の前では子供に……君に甘えていた飛仙に戻ってしまいそうだ」
黒い衣に包まれた星宇の体はがっしりとしているのに。しょっちゅう首に巻いていた天雷の面影があるようで、瑞雪は星宇を抱きしめたくなってしまった。
結局、お茶は薄荷と金盞花を合わせて淹れることにした。
薪の火ではなく炭を使う。炭火で沸かしたお湯はきめが細かくまろやかだ。
シュンシュンとお湯が沸き、瑞雪は蓋碗に花茶と共にお湯を注いだ。蒸らしている間に、文護からもらったという菓子の包みを開く。
紙の中から現れたのは、白く四角い菓子だ。表面はぼこぼこしている。
「沙其馬ですね。陛下でもこんな素朴なお菓子を召し上がるんですね」
小麦粉を練って麺状にしたものを油で揚げて、型に入れて蜜で固めた菓子だ。
「おお、さすがは文護陛下の沙其馬。干し葡萄と胡桃が入ってますね」
胡桃も葡萄も薬膳の素材だ。胡桃は体を温め、疲労回復に効く。葡萄は食欲不振や息切れなどにいい。
沙其馬は柔らかな歯ごたえで、蜜がかけてあるのでしっとりというか、ねっちょりとしている。噛むと油と蜜が混じった仄かな甘みを感じた。
刻んだ胡桃の歯ごたえと、蜜よりも甘い干し葡萄のおかげで本来は単調な味の沙其馬がよりおいしい。
「こうして食べるそうだ」
紙に包んだ沙其馬を、星宇はぎゅーっと握りつぶした。
「え? せっかくきれいに作ってあるのに。というかこれ、掌膳の皆さんが作ったんですよね、陛下のために。わたしがもらって大丈夫なんでしょうか」
すでに齧ってしまった後で、瑞雪は手に残る沙其馬を眺めた。
きっと時宜の指導の下、女官たちが丁寧にこしらえたはずだ。胡桃の殻を割って刻み、干し葡萄を均等に沙其馬の生地に並べて。
「まぁいいんじゃないか? 陛下からいただいたものを『返します』とも言えんだろう」
どうやら文護はいつも沙其馬を握りつぶして食べているらしい。その方がふわふわせずに、噛みやすいのだそうだ。
「ただなぁ、陛下は握力がないから。すぐに俺に潰してほしいと頼まれる。俺はいつも侍女に睨まれるのだ」
星宇は肩をすくめた。
どうして護衛は陛下を甘やかすのですか? ただの子供ではないのですから、行儀の悪いことは断ってください、と侍女に詰め寄られるのだ、と。
「陛下の命令というか、頼みは断れませんよね」
「そうなんだよ。陛下の落ち込んだ顔は見たくない」
子供の頃の瑞雪が天雷を保護したように、文護もまた皮を剥がれそうになった天雷の命を救っている。だからだろう、星宇は文護を大切に思っている。
「そういえば陛下も、わたしのように天雷を懐に入れたりするんですか?」
「……君だけだ、そんな無茶なことをするのは」
「それもそうですね」
飛仙はまるっこくて小さくて温かくて、しかも可愛い。だから懐で眠ってくれると嬉しかったのだ。
この小さい命を自分はちゃんと守ってあげることができるのだと、嬉しくて。
ふと視線を感じて瑞雪は顔を上げた。星宇が柔らかな瞳で、瑞雪を見つめていたのだ。
「どうかしましたか」
「何が楽しいのか分からぬが。そうやって笑ってくれるのは、嬉しいと思ってな」
「笑ってましたか?」
「笑ってないのか? それで」
星宇に指摘され、瑞雪は自分の頰に触れた。口角が上がっている、知らぬ間に。
金盞花のお茶はほんのりとした甘さの後に、ほのかに苦みを感じる。そこに加わる薄荷の清々しさ。干し葡萄の入った沙其馬が甘いから、花茶の微かな苦みや爽快感がちょうどいい。
澄んだ淡い金色のお茶を、対面する席に座った星宇は「珍しいものを飲むのだな」と言いながら口に含んだ。
瑞雪は花茶を飲み終えた碗を置いて、星宇を見据えた。星宇が皇帝からの差し入れを持って、ただ遊びに来たわけではないのは明白だ。
「宋舞さんは、葉青さまに過剰に生薬を与えました。毒ではないけれど、結果として宋舞さんは侍女としての地位も信頼も未来も失ったのです」
状況をよく知る星宇はうなずいた。
「宋舞さんはかつて皇后の侍女であった頃に毒を盛られて、足が不自由になっています。さらに今度は犯人に仕立て上げられて、葉青さまの侍女を解雇されました」
どうして皇后本人ではなく、その侍女が狙われたのか。しかも宋舞は毒見であったこともない。
ここ数日、瑞雪は宿舎の寝床で天井を眺めながらずっと考え続けていた。
二度も利用された宋舞の恨みは、常に薬命司に向くように仕向けられている。
——お前が体にいいと作った甜品を、疑いもせずに食べた私が愚かであった。杏仁汁粉が咳に効く、藍苺が目の疲れに効く。尤もらしい御託を並べて私を騙しおって。
——お前のせいで、私の足はこんなだっ。
取り押さえられながら絶叫する宋舞の言葉が、いつまでも瑞雪の耳の奥にこびりついている。
藍苺、それ自体に毒はない。むしろその青紫の色に効能があり、目の健康を保つ明目の効果がある。
では杏仁は? これは杏子の種で咳止めの薬。ただし作用が強く毒も含む。大量に摂取すると頭痛や嘔吐の症状が現れる。ひどい場合には昏睡し、死亡する。
叔母が杏仁の量を間違えるはずがない。
「未遂になったのは、たまたまだったのでは?」
星宇の問いかけに、瑞雪はあごに手を添えて考える。せっかく自然に浮かんでいた笑みは、もう消えていた。
「たまたまかもしれませんが。犯人は、殺人までは望んでいなかった可能性も捨てきれません」
犯行がどこか中途半端なのだ。宋舞に対する憎しみよりも、叔母の欣然に対する憎悪の方が勝っていたのなら。端から叔母を狙えばいいことなのに。
いや、狙えない。薬命司である欣然はすぐに毒と見抜いてしまうだろう。
「叔母さまが白苑後宮にいたのと同時期なのだから、宋舞さんが皇后の侍女だったのは若い頃ですよね」
「まぁ、そうだろうな」
「陛下のお世話をなさるのは宦官が多いと思いますが。内廷の殿舎には侍女もいました。侍女は女官や宦官のような事務仕事をしていますか? 細かな書き物とか」
文護はまだ幼い。それゆえに身の回りの世話を宦官ではなく、細やかな気遣いのできる侍女がしているのかもしれない。
星宇は殿舎での様子を思い出すように、視線を斜めに上げた。
「していないな。あくまでも陛下の身の回りの世話だな」
やはり。瑞雪は表情を引き締めた。
今の白苑後宮には侍女がいない、仕えるべき妃嬪が一人もいないのだから。だから瑞雪は侍女の仕事を知らない。それ故、星宇に尋ねたのだ。
藍苺には、目の状態をよくする明目の効果がある。
事務仕事で細かな書き物が多い女官、緻密な刺繍をする尚服局の女官なら夕刻には目が見えにくくなるし、痛くもなる。だから藍苺を摂取するのも分かる。
人は加齢により目は見えにくくなる。けれど宋舞が皇后の侍女であった若さでは、その必要もないだろう。
藍苺は森に自生しているので、京師にある白苑後宮に運ぶのも時間がかかるし新鮮な状態での保存も難しい。
瑞雪は決明子の入った袋に視線を向ける。
目の疲れを日常的に感じ、文字が見えにくいのであれば、自分なら種子の状態で長く保存できる決明子を利用する。
藍苺を敢えて使う理由は——
「宋舞さんが食べた藍苺こそが毒だから」
それも強力な、半身不随すら引き起こす猛毒だ。
瑞雪のうなじがひりつく痛みを覚えた。
昨日、宋舞は葉青に当帰と川芎を過剰に食べさせた。けれど宋舞に生薬の知識はない。誰かが宋舞に嘘を吹き込んだのだ。「生薬を摂れば摂るほど、健康になりますよ」と。
「待って、これで終わりじゃない。毒はまだ使用されるわ」
瑞雪は両手で卓を叩きつけながら立ち上がった。碗の蓋ががちゃっと派手な音を立てる。
「天雷、陛下を守って。今すぐ陛下の元に戻って!」
名を呼び間違えられても、星宇は反論しなかった。それほどに瑞雪の声は切羽詰まっていたからだ。
すぐに踵を返して、星宇は駆けて行った。




