10、星宇の過去【3】
「そうして私は南方へと走った。何分にも幼い飛仙の身であったからな。何年かかったかは覚えていない」
文護の側に立つ星宇は、苦い笑みを浮かべた。
だから瑞雪には分かってしまった。想像を絶するほどの苦難の道であったことを。
「木の枝から枝へ飛び移るように進んだのだが。集落の近くを進んでいる時、嵐のせいで土砂が崩れた。私はあっという間に飲み込まれた」
文護は悲鳴を上げた。瑞雪は口を手で覆い、叫びそうになるのを堪える。
土臭いにおいと、生臭いにおい。山の斜面からぱらぱらと落ちてくる小石。それらが土砂崩れの前兆であると、天雷が知るはずもなかった。
一瞬で土砂に埋もれ、息を吸おうとすれば濡れた土が鼻に入り込んだ。
苦しい、苦しい。石と石のわずかな隙間に天雷は流れたようで、運よく小さな飛仙の体は潰されずに済んだが。それもただ死ぬまでの時間が伸びただけだ。
——おてがみ、きえちゃう。おばさまにとどけるって、きめたのに。
呼吸をしようとすれば、土砂の中でぜぇぜぇと肺が鳴るばかり。しだいに天雷の頭はぼうっとしてきた。
真っ暗で光もないのに、なぜか瑞雪の姿が見えた。氷雨に濡れていた天雷を助け、凍えた体を温めてくれた。欣然と一緒に山羊の乳をくれた。
瑞雪こそが天雷の生きる意味だ。
あの子に笑ってほしかった。欣然からの返事が来れば、きっと瑞雪は安心するから。毎朝、頬に涙の筋が残らなくてもいいように。
もし、自分までがいなくなったら瑞雪はどれほど悲しむだろう。絶望しか残らないのではないか。
——いやだ、そんなの。
瑞雪が待っている。一番大事な主を、これ以上泣かせるわけにはいかない。
——ルイシュエはぼくのことがすきなんだもん。
暗く閉ざされた土砂の中、光など届かぬはずなのに。天雷の目の奥で光がはじけた。澄みきった透明な粒と、しっとりと光る淡い翠の粒が一面に見える。
故郷の山の景色だ。これまで一度も思い出すことなどなかったのに。
——ぜったいにしなない。ルイシュエのところにかえるんだ! だってぼくはルイシュエがだいすきなんだもん。
脳内に浮かんだ水晶と翡翠の山が鮮烈な光を放つ。その光は天雷の姿を包み、さらに厚い土砂の向こうにまで届いた。
『おい、土が光っとうぞ』
『なんや、どうした』
男たちの焦る声が聞こえた。さっきまでは届かなかったはずの人の声、地面を叩く雨の音が騒がしい。
——あれ? あしがへんだ。
天雷は前脚を伸ばした。手が大きい、指も長い。開いたてのひらに、バタバタと重い雨が落ちてくる。飛ぶための皮膜はない。手首と腕を伝い流れる雨、天雷の腕には白い毛も生えていなかった。
『ちょお、兄ちゃん。大丈夫か。生き埋めになっとったんか』
『ほら、土砂から引き出すぞ。早よ村に運んでやらんと』
土砂崩れの様子を見るために、村人が集まっていたのだろう。けれど彼らが目にしたのは、泥の中から生まれたような青年だった。
『にゃ……にゃあ』
人となった天雷が発した声に、緊迫していた村人たちがどっと笑う。笠をかぶり手も足も泥にまみれているのに、辺りには根が露になった木が倒れているのに。あまりにも楽しそうに男たちは天雷の肩を叩いた。
『兄ちゃん、面白いなぁ』
『なんやけったいな言葉やなぁ。けど命拾いしてよかったな。あんた、運がよかったで』
男たちに泥から引きずり出してもらいながら、天雷は首を傾げた。
何がどうして人になったのか。あと、自分は子供のつもりだったのに、もしかして違った?
◇◇◇
「私は人として旅を続けながら、言葉を覚えていった。野宿をし、時に畑仕事を手伝い日銭を稼いだ」
直立したままの星宇が、ちらっと瑞雪に目を向ける。黒水晶の瞳には愁いを帯びた翳が滲んでいた。
「ただ、気を抜くと飛仙に戻ってしまう。その逆もあるが。だから熟睡はできない」
常に眠りは浅く、周囲に気を張っているのだと星宇は告げた。飛仙の姿で深く眠ってしまえば、毛皮を剥ぐために殺されてしまうのだと。
「欣然殿にようやく会え、瑞雪への返事ももらった。私が天雷であると信じてもらうのは大変だったが。まぁ、何とか……」
おそらく星宇は叔母の目の前で、飛仙に変化したのだろう。
「人としての名前はあるの? と欣然殿に尋ねられ。私は『おい、あんた』と『兄ちゃん』の二つの名があると答えた」
瑞雪には想像できる。「どこから何を教えればいいのか」と頭を抱える叔母の姿が。ちょっと微笑ましいが、ここまで天雷を人らしく教育してくれたことはかなり申し訳ない。きっと大変だっただろう。
「厳しかった……欣然殿は。人の姿で鼠を追うな、人の姿で木に登ろうとするな、食事の時は箸を持てとうるさくて。私はかなり参ってしまった」
——あなたは星宇。飛仙の天雷では瑞雪のいる伊河に戻れません。必ず狩られます。星宇が飛仙であることがばれないように暮らしなさい。
——にゃ、にゃあ……。
——猫じゃないの! 人の言葉でしゃべりなさい。
何しろ天雷の命がかかっているのだ。叔母も必死だっただろう。
「猫の鳴き真似の方が楽だった」
ため息とともに星宇はこぼした。
「叔母さまが元気そうで安心したわ。ありがとうね、天雷」
「……星宇だ。しばらく欣然殿と暮らした私は、瑞雪の元に戻ろうとした。だが」
「ごめんなさいっ!」
突然、文護が謝った。皇帝とは思えぬほどに、深く頭を下げる。しかも謝罪の相手は星宇と瑞雪だ。
何事かと、瑞雪は呆気に取られて口を開いた。
「じつはおとうさまが、ずっとまえにびょうきをなおすために、ひせんをつかまえたんです」
文護が申し訳なさそうに肩をすぼめる。
「ひせんって、れいじゅうなんでしょう?」
霊獣。その厳めしい言葉が愛らしい天雷と結びつくのに、瑞雪は数瞬を要した。
確かに飛仙は地精であるのだが、霊獣となると龍や麒麟、鳳凰などではないか?
「確か岷国の辺境では、飛仙を祀る家もあると聞いていますが。いずれにしても地方の民間信仰では……」
先帝は、武官や宦官に命じて病を治す動物を捜させていたとこのとだ。そして捕まえたのが、飛仙の姿に戻っていた天雷であった。
それほどに藁にも縋る思いで飛仙を求めたのは、まだ幼い文護が皇帝となるのを案じてのことなのだろう。
「ひせんはありがたいれいじゅうだから、かごにいれて、さいだんにまつるって。おとうさまが」
「天雷を祭壇に?」
こくりと文護はうなずいた。
「ぼくは、はんたいしたんです。でもおとうさまは小さなかごにティエンレイをとじこめて。おせんこうのけむりがすごくて、ティエンレイがくるしそうにしてたから」
だから文護は籠ごと天雷を奪ったのだそうだ。
「ぐったりしてたからたすけたのに。お前のためなのにきっとわざわいがおこるって、ぼくはおこられて。そのあと、おとうさまのぐあいがわるくなって……」
天雷を助けたせいなのか、と文護は自分を責めたという。
「だからぼくはイェチンにききにいったんです。イェチンはむずかしくてこわいことを、たくさんしってるから」
ああ。それで文護は、苦手なはずの妖怪の話を葉青から聞いていたのか。天雷も父も、どちらも助けたくて。
葉青は飛仙の糞は薬になるけれど、陛下の病気を治す力はないと教えてくれた。文護はさらに学者にも確認したそうだ。
民間伝承とその裏付け。そして皇帝である父や側近への説得。文護は未熟だし、宰相の力を借りねば執務も難しいが。
それでも自ら難局を打開しようと動いている。幼いながらも文護は周囲への交渉を繰り返してきたのだ。
「ようやくおとうさまが、ティエンレイのことを『いらない』っていったの。だから、ぼくがつれてかえったんです」
するとさっきまで愛らしい飛仙だった天雷が、素っ裸の青年に変化したのだという。
困った文護は、次は皇后である母親に相談した。『おとうさまにばれたら、ぜったいにティエンレイがころされちゃう』と。
そして皇后の計らいもあり、厳という姓を与えられた星宇は護衛となった。理由は一つ、護衛であれば常に文護の目が届くから。元が飛仙であることもごまかせるだろう、と。
皇后——今の皇太后がどのような人か瑞雪は知らない。だが、なかなか豪気なお方のようだ。
「ありがとうございます、陛下。天雷を救ってくださって」
冷めてしまった碗を手にして、瑞雪は微笑んだ。
「ようやく天雷に会えて、元気な姿を見て、すごく嬉しいんです。本当に、本当に大事な子なんです」
立ったままで控えている星宇が、視線を逸らした。けれどその瞳は潤んでいた。




