2、星宇との関係
翌日の昼前に、瑞雪は白苑後宮の奥の宮へ向かった。
葉青の暮らす南邸と奥の宮を一日ごとに訪れて、それぞれに薬膳料理を食べてもらう。それが瑞雪の目下の仕事となった。
「まぁ、南家の令嬢に薬膳料理を作っているの? わざわざ?」
奥の宮に夕食の薬膳料理を届けた瑞雪に、元紅梅が尋ねた。葉青が皇后候補であることは明かせない。勿論、貴族たちの間では噂されているだろうが、まだ幼い葉青が権力争いに巻き込まれてはいけないからだ。
失言してはいけないと、瑞雪は運んできた料理を卓子に並べながら口をつぐんだ。
紅梅は体を冷やさない方がいいので、韮をたっぷり入れた炒麺を用意した。冬場の牡蠣を塩ゆでし、それを干して作った調味料を使っているのでうまみも深い。
「瑞雪さん。今日はおとなしいのね」
「元々うるさくないですよ」
「あら、いつもは薬膳料理の効能をつらつらと話してますよ。自覚していないのかしら」
皿や器を覗き込んだ後で、紅梅が瑞雪の顔を凝視する。いや、近いんですけど。
「あれはおしゃべりじゃなくて説明です。そういえば紅梅さまには毒見がいらっしゃらないですね」
瑞雪の問いかけに、紅梅は肩をすくめて苦笑した。
「こんな辺鄙な宮に暮らすおばさんに、毒見なんて不要でしょ? 身分も高くないし。でもそのおかげで、誰も箸をつけていない料理をいただくことができるわ」
紅梅は箸を手に取った。
「瑞雪さん、この間の武官とはどうなっているの?」
話題が飛んだ。現役の嬪であった頃の話は、あまりしたくないのだろうか。
武官って厳星宇のことか、と瑞雪は急須である茶壺にお湯を注ぎながら考えた。
身分は聞いていないが、嬪であった頃の紅梅はもっと高価なお茶も飲んでいただろうが。今、部屋に用意されている茶葉は黄金桂だ。天にも届く香りで、透天香とも呼ばれている。
茶葉の価格は天井知らずなので、それを考慮すると安い方かもしれない。
茶壺に満たされた黄金桂からふわぁっと湯気が立つ。桂花のような華やいだ香りだ。
「どうもなっていませんよ。あの人は陛下の護衛ですから、わたしとは何の関係もありません」
「あらぁ、そうかしら。わたくしはそうは思わないわ。ちゃんと星宇さんと話をしてみなさいな、きっといい方向に進むわよ」
「いい方向って」と、瑞雪は苦笑いを浮かべる。紅梅は会うたびに、星宇との関係が進んだかを訊いてくる。
星宇はただ皇帝からの指示を瑞雪に伝えに来るだけだ。
(まぁ、雨が降れば傘を差してくれたりもしたけど)
きっと冴え冴えとした見た目によらず、親切なのだろう。
「あの子は、あなたのことを好きなのよ」
「は?」
思いがけない紅梅の言葉に、碗に注いでいたお茶が溢れてしまった。「あつっ」と瑞雪は慌てて布巾で手や卓子を拭く。
「まぁ大変。早く水で冷やしていらして」
「あの、どうして星宇さんがわたしのことを好きってお考えになるんですか? 他の人にも傘を差しかけているかもしれませんよ?」
「……そんなことはしないわ」
紅梅は意味深なことをこぼしながら、瑞雪の背中を押して水場へと連れて行った。
(いや、奥の宮での暮らしが暇だからって、無理に星宇さんとくっつけられても困るんだけど。星宇さんだって迷惑だわ)
そう反論したいのに瑞雪の背中を押す紅梅の力は強い。お茶が掛かった左の指が、ひりひりと痛んできた。
そう、星宇とは何の関係もない。今の自分は葉青を健康にしてあげたいし、かわいい天雷も帰ってきてくれたし。それに薬命司の名誉も——
(あれ? 今までなら薬命司の件が一番だったのに。ううん、それ以外のことは興味がなかったのに)
すべきことが増えてしまったからだろうか。優先順位が変わってしまっている気がする。
ふと見れば、紅梅が小さな壺の蓋を開いていた。その眼差しは真剣だ。
何だろう? と瑞雪は思い紅梅の元へ近寄った。
「瑞雪さん。これは梔子よね」
橙色の実を一つつまみ、瑞雪に確認をとる。
「はい。生薬で言うなら山梔子ですね」
その山梔子はかなり古いのだろう。乾燥しているというよりも硬く干からびてしまっている。しかも鮮やかな橙色ではなく、時を経てくすんでいた。
「これは毒かしら」
「『本草経』では中品に分類されています。効き目の多い薬ですが、長期に服用すると健康を害します」
「害するって……具体的には?」
生薬にかなり興味があるのか、紅梅は重ねて尋ねてくる。まるで急いているように。
「五年以上の服用で腸に影響が出ることがあります。腸閉塞や腹膜炎を引き起こせば、死に至ることも」
「……そう。そうなの」
紅梅の声は沈鬱だ。先ほどまでの瑞雪をからかうような明るさは、もうどこにもなかった。この寂しく夏でも寒い奥の宮のように。
◇◇◇
瑞雪が南邸に通う内に、葉青の体調も改善してきた。用意した薬膳料理を残すこともなく、青ざめた雪のような顔色に血色が戻っている。
今日の葉青の昼食は包子と四臣湯だ。
包子は発酵させた生地を練って、中に野菜と肉の餡を包む。
「葉青さまも少量なら豚肉を召し上がってくださるようになって、よかったわ」
薬命司の部屋で瑞雪は生地で餡を包んでいた。中に入れる具は包丁で細かく刻んだ豚肉だ。そこに季節の青菜を加えている。
一つ一つの包子は小ぶりに、皮の上部をひねって閉じる。生の状態で南邸に運ぶわけにいかないので、一度蒸してから持参することにした。
南家の離れにある炊事場で、再び蒸しなおせばふっくらするだろう。
すでに四臣湯は熾火でとろとろと煮込んである。脾、つまり胃腸の働きを健やかにする効果がある湯だ。
この湯には豚のモツを使うが、下処理や茹でて臭みを抜いた上で煮込んでいるのでクセもなく食べやすくなっている。
「うわぁ、ほかほか。おいしいです、ルイシュエさん」
ふっくらと蒸しなおした包子を、葉青は頰ばった。宋舞はいつものごとく毒見をするが、大丈夫。蒸籠に入れた包子はすぐには冷めない。
「豚肉よりも青菜を多く入れていますから。くどくないと思いますよ」
「はい、いくらでも食べられそう」
次の包子に手を伸ばした葉青を見て、宋舞は目を丸くした。皇后となるべき令嬢が行儀悪く包子に齧りついているのに、たしなめることすら忘れている。
「パオズの皮にお汁がしみているぶぶんが、すっごくおいしいんです」
「包子の上と下では、食感も味も異なりますよね。葉青さま、よければこちらの四臣湯もお召し上がりください」
碗に注いだ湯を瑞雪は卓子に置いた。
「これもぶたにくが入ってるんですか?」
「はい、内臓になるのですが。柔らかく煮込んであるので食べやすいと思います」
四臣湯には芡実、蓮子、淮山、茯苓といった生薬を使っている。
芡実はオニバスの実で、滋養強壮の効果があり体に無害な上品だ。蓮子はハスの実、胃腸の働きを整える。そして茯苓は松の切り株の根に付着する茸だ。
「中に入っている淮山は山芋ですから、普段から召し上がってらっしゃいますね」
「そうなんですね」と、葉青は匙で湯をすくった。
やはり豚の内臓を口に入れることに葉青は躊躇している。
けれど湯気の立つとろりとした湯と体にいい生薬の匂いに引き寄せられて、葉青は匙を口に運んだ。
「ふしぎ。まろやかです」
勇気を出した一口目の後は、食が進むようで葉青は碗をすぐに空にした。
「ルイシュエさんのおりょうりって、やくぜんなのにすごくおいしいです」
湯のおかわりを所望しながら、葉青は次の包子に手を伸ばす。言葉で褒められ、その態度からも本当においしいと思ってもらえていることが嬉しい。
瑞雪は微笑みながら食事をとる葉青を見守っていた。
「なるほど。やはり生薬を多く使うと体にいいんですね」と、宋舞は感心したように言葉をこぼす。
「用量と服用の期間に注意すれば、体にいいですよ。効果がきつい生薬もありますから、摂りすぎは禁物ですね」
瑞雪の話を聞いているのかいないのか。宋舞は「お嬢さまがおかわりをなさるなんて」と目に涙まで浮かべている。
食事だけではない。午後は葉青は体を動かす習慣もついた。
池の周囲にある水廊を歩き、さらに元気がある時は庭にも降りる。そして——
「ねぇねぇ、ルイシュエさん。ちゃんとティエンレイはついてきている?」
「はい、葉青さまが進めば進むほど、天雷もご一緒しますよ」
なぜか葉青の散歩に、天雷まで同行しているのだ。
最近、ようやく夏めいてきた。心地よいが吹き、池の水面にさざ波が立つ。木の枝から垂れた橙色の凌霄花が蔓ごと風に遊ばれた。
霄を凌ぐ花との名の通り、木の幹に絡んだ蔓が天に向かって伸びている。
栄養や薬効のあるものを摂っているからだろう。葉青の長い髪には絹糸のような艶が戻っているし、頰もふっくらとしてきた。
天雷は尻尾をぴんと立てて、凌霄花に跳びつきたそうにしている。
「だめよ、天雷。いい子にしていてね」
瑞雪が注意すると天雷は「にゃあ」と返事をした。聞き分けはいい。そしてどこまでも猫の真似がしみついている。
「そういえばこのあいだ、ウェンフーにあったのよ」
「陛下にですか?」
「ええ。ウェンフーったら、わたくしを見てびっくりしていたわ」
立ち止まった葉青が風を感じて、手を上げる。細い指の間から群青色の空が見えた。
「わたくしがすごく元気になって、おどろいたんですって。さいしょうをなさっているおじさまも『これならいつ皇后におむかえしてもいいですね』ですって。気が早いのね」
ふふ、と楽しそうに葉青が笑う。まるで凌霄花がほころんだような、朗らかな笑みだ。
「ウェンフーが、ルイシュエさんのおかげだって言ってたわ」
「そんな恐れ多いです。葉青さまが薬膳料理を残さずお召し上がりになっていますし。こうして運動もなさっているからですよ」
「でもルイシュエさんがいないと、どっちもできなかったわ」
皇帝に褒められるだけでも勿体ないことなのに。叔母の欣然が聞いていたら、きっと喜んでくれただろう。
「ティエンレイのおかげもあるのよ。いつもルイシュエさんを守ってるものね。こうしていっしょにうちに来てくれて、とてもうれしいの」
葉青はしゃがんで、天雷の頭を撫でた。後ろ足で立ち上がり、葉青が撫でやすいようにしている。
問答無用で抱き上げられなければ、天雷は足を突っ張ったりしないようだ。
こんな風にゆっくりとではあるが、葉青は健康になっていくはずだった。




