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【完結】白苑後宮の薬膳女官  作者: 絹乃
一章

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14/32

14、皇帝と天雷

「ねぇ、天雷。うちを出てどこへ行ってたの?」


 瑞雪の問いに、天雷は彼女のてのひらで立ち上がった。まるで猫が毛づくろいをするかのように、自分の首から前脚にかけての辺りに口を添える。

 ふっと四角いものが白銀の被毛から現れた。小さくたたまれた紙のようだ。白といっても茶色いしみがついて汚れているし、端も破れてしまっている。


 小さな口で咥えた紙を瑞雪に見せようとしたのだろう。天雷は顔を上げたが、ふと思い直したように先ほどと同じ所に入れなおした。


「……紙をしまう場所なんて、どこにあるの?」


 体に口袋ポケットでもついているわけでもあるまいに。それとも飛仙の特別な能力なのか。


「その紙は大事なものなのね」


 こくりと天雷がうなずいた。


「大切なのに見せてくれて、ありがとうね」


 瑞雪が天雷の頭をなでる。それが当然であるかのように、天雷は撫でやすいように両方の耳を倒した。柔らかくて手触りが良く、つい笑みがこぼれそうになる。


「ずっと一緒にいたかったなぁ。もうどこへも行かないでね」


 ふと周囲がざわつく声が聞こえた。橋の上にいる人たちが端に寄り、道を開ける。瑞雪は天雷を懐に入れて、慌てて石の欄干まで退がった。


 シャンシャン、と澄んだ鈴の音が重なって聞こえた。轎夫きょうふの四人が腰の辺りで担いだ輿が近づいてくる。輿には屋根から幕が垂らされ、四方に付けられた鈴の束が進むごとに鳴っている。鈴から下がる長い布がそよぎ、風の流れが目に見えた。

 高貴な人が乗る輿だ。

 瑞雪は皆に倣い、深くこうべを垂れて揖礼した。


(お願いだから出てこないでよ、天雷。輿の前を横切ったら不敬になるからね)


 喋るわけにもいかないので、瑞雪は必死に念じた。


 なのに願いは通じない。

 もぞもぞと胸元の衿の部分が動き、あろうことか天雷がひょこっと顔を出したのだ。


 うそっ! ダメだって。

 だが皇帝が乗る輿を前にして、礼を取る手を動かすことなどできやしない。せめて揖礼している両手で隠そうとしたのに。とうとう天雷は懐から這い出して瑞雪の肩に乗ってしまった。


 シャンシャン……シャン。輿の屋根に付けられている鈴の音が止まった。それも瑞雪の目の前で。


 万事休すだ——

 瑞雪は息を呑んだ。だが、顔を上げることはできない。


「あれ? ティエンレイ、こんなところにいたの?」


 勢いよく幕がめくられ、幼い声が降ってきた。

 ティエンレイ? まさか陛下は天雷をご存じなの?


「もーぉ、さがしたんだよ。かってにいなくならないでよ」


 輿から身軽に飛び降りたのは文護ウェンフーだ。輿の側に控える護衛が慌てて小さな体を支える。もし護衛の助けがなければ文護は転んでいただろう。


「ありがとう」


 照れ笑いをしながら、文護が礼を言う。衣に焚き染めたかぐわしい香が、ふわっと瑞雪の鼻をかすめた。


「よーし、だっこしてあげるね」


 文護は背伸びをして瑞雪の肩に手を伸ばした。そのまま天雷は、幼い皇帝の手へと移る。

 いや、ご存じなんてものじゃない。むしろ飼い主のような振る舞いだ。


「あ、ルイシュエさんだ。もしかしてイェチンのいえにもう行ってくれたの? ……ですか」


 天雷を手で包みながら文護が近づいてくる。


「はい。葉青さまの診断を終えて、今から白苑後宮に戻るところでございます」


 本来なら瑞雪のような身分では、直接皇帝と口をきくことは叶わない。今回は葉青の件を依頼されたこともあり、文護は瑞雪に親しげだ。

 周囲にいる官吏たちが、びっくりしたように顔を強ばらせている。


(まぁ……そうだよね。皇帝と女官が立ち話をするなんて、普通はあり得ないもの)


 けれど皇帝が天雷と親しいことの方が、瑞雪には驚きだ。

 輿から下りた文護の隣には、侍衛親軍の護衛が控えている。今日の担当は厳星宇ヤンシンユィではないようだ。


「ぼくも……えっと、ちんも、これからナン家にいくんです……いくところである。イェチンにおはなしをきいてきます……きいてまいる?」


 やはりまだ七歳の子供だ。皇帝らしい格式ばった言葉遣いは苦手らしい。


「ティエンレイもいっしょにいく?」


 文護に誘われて、天雷はふるふると首を振った。何しろさっき南邸から戻ったばかりなのだ。


 璠の家を出て行った天雷が、どうして皇帝の元にいるのか分からない。同じ京師みやこ伊河いこうにいたのに、一度も璠家に戻ってこなかったのかも。


「なんで? いっしょに行こうよ、ティエンレイ」


 さすが皇帝、押しが強い。天雷は文護の手から逃げて飛んだ。

 ひらりと風に乗って、天雷は石橋の望柱ぼうちゅうに着地する。


「まってってば。ティエンレイ」


 追いかけようとする文護を護衛が止め、天雷はふいっとそっぽを向いて欄干の上を歩いていった。


「あーあ、いっちゃった」


 残念そうに天雷を見送る文護。瑞雪もまた幼い皇帝と同じように天雷を眺めていた。

 風を受けて軽やかに舞う天雷は、瑞雪が子供の頃によく知っている様子と何一つ変わらなかった。

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