14、皇帝と天雷
「ねぇ、天雷。うちを出てどこへ行ってたの?」
瑞雪の問いに、天雷は彼女のてのひらで立ち上がった。まるで猫が毛づくろいをするかのように、自分の首から前脚にかけての辺りに口を添える。
ふっと四角いものが白銀の被毛から現れた。小さくたたまれた紙のようだ。白といっても茶色いしみがついて汚れているし、端も破れてしまっている。
小さな口で咥えた紙を瑞雪に見せようとしたのだろう。天雷は顔を上げたが、ふと思い直したように先ほどと同じ所に入れなおした。
「……紙をしまう場所なんて、どこにあるの?」
体に口袋でもついているわけでもあるまいに。それとも飛仙の特別な能力なのか。
「その紙は大事なものなのね」
こくりと天雷がうなずいた。
「大切なのに見せてくれて、ありがとうね」
瑞雪が天雷の頭をなでる。それが当然であるかのように、天雷は撫でやすいように両方の耳を倒した。柔らかくて手触りが良く、つい笑みがこぼれそうになる。
「ずっと一緒にいたかったなぁ。もうどこへも行かないでね」
ふと周囲がざわつく声が聞こえた。橋の上にいる人たちが端に寄り、道を開ける。瑞雪は天雷を懐に入れて、慌てて石の欄干まで退がった。
シャンシャン、と澄んだ鈴の音が重なって聞こえた。轎夫の四人が腰の辺りで担いだ輿が近づいてくる。輿には屋根から幕が垂らされ、四方に付けられた鈴の束が進むごとに鳴っている。鈴から下がる長い布がそよぎ、風の流れが目に見えた。
高貴な人が乗る輿だ。
瑞雪は皆に倣い、深く首を垂れて揖礼した。
(お願いだから出てこないでよ、天雷。輿の前を横切ったら不敬になるからね)
喋るわけにもいかないので、瑞雪は必死に念じた。
なのに願いは通じない。
もぞもぞと胸元の衿の部分が動き、あろうことか天雷がひょこっと顔を出したのだ。
うそっ! ダメだって。
だが皇帝が乗る輿を前にして、礼を取る手を動かすことなどできやしない。せめて揖礼している両手で隠そうとしたのに。とうとう天雷は懐から這い出して瑞雪の肩に乗ってしまった。
シャンシャン……シャン。輿の屋根に付けられている鈴の音が止まった。それも瑞雪の目の前で。
万事休すだ——
瑞雪は息を呑んだ。だが、顔を上げることはできない。
「あれ? ティエンレイ、こんなところにいたの?」
勢いよく幕がめくられ、幼い声が降ってきた。
ティエンレイ? まさか陛下は天雷をご存じなの?
「もーぉ、さがしたんだよ。かってにいなくならないでよ」
輿から身軽に飛び降りたのは文護だ。輿の側に控える護衛が慌てて小さな体を支える。もし護衛の助けがなければ文護は転んでいただろう。
「ありがとう」
照れ笑いをしながら、文護が礼を言う。衣に焚き染めたかぐわしい香が、ふわっと瑞雪の鼻をかすめた。
「よーし、だっこしてあげるね」
文護は背伸びをして瑞雪の肩に手を伸ばした。そのまま天雷は、幼い皇帝の手へと移る。
いや、ご存じなんてものじゃない。むしろ飼い主のような振る舞いだ。
「あ、ルイシュエさんだ。もしかしてイェチンのいえにもう行ってくれたの? ……ですか」
天雷を手で包みながら文護が近づいてくる。
「はい。葉青さまの診断を終えて、今から白苑後宮に戻るところでございます」
本来なら瑞雪のような身分では、直接皇帝と口をきくことは叶わない。今回は葉青の件を依頼されたこともあり、文護は瑞雪に親しげだ。
周囲にいる官吏たちが、びっくりしたように顔を強ばらせている。
(まぁ……そうだよね。皇帝と女官が立ち話をするなんて、普通はあり得ないもの)
けれど皇帝が天雷と親しいことの方が、瑞雪には驚きだ。
輿から下りた文護の隣には、侍衛親軍の護衛が控えている。今日の担当は厳星宇ではないようだ。
「ぼくも……えっと、ちんも、これからナン家にいくんです……いくところである。イェチンにおはなしをきいてきます……きいてまいる?」
やはりまだ七歳の子供だ。皇帝らしい格式ばった言葉遣いは苦手らしい。
「ティエンレイもいっしょにいく?」
文護に誘われて、天雷はふるふると首を振った。何しろさっき南邸から戻ったばかりなのだ。
璠の家を出て行った天雷が、どうして皇帝の元にいるのか分からない。同じ京師の伊河にいたのに、一度も璠家に戻ってこなかったのかも。
「なんで? いっしょに行こうよ、ティエンレイ」
さすが皇帝、押しが強い。天雷は文護の手から逃げて飛んだ。
ひらりと風に乗って、天雷は石橋の望柱に着地する。
「まってってば。ティエンレイ」
追いかけようとする文護を護衛が止め、天雷はふいっとそっぽを向いて欄干の上を歩いていった。
「あーあ、いっちゃった」
残念そうに天雷を見送る文護。瑞雪もまた幼い皇帝と同じように天雷を眺めていた。
風を受けて軽やかに舞う天雷は、瑞雪が子供の頃によく知っている様子と何一つ変わらなかった。




