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【完結】白苑後宮の薬膳女官  作者: 絹乃
一章

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13/32

13、猫化計画

 瑞雪は自分が五歳の頃のことを思い出した。

 雨が激しすぎて、辺りが白く煙って見える初冬の午後であった。瑞雪の実家の軒で雨宿りしていたのが天雷だ。


 びしょ濡れで、やせ細った飛仙の子供はひどく震えていた。瑞雪も最初は濡れたネズミだと思っていた。

 飛仙は毛皮も美しいが、その肉を食べれば毒に当たらず悪夢を見ないという。瑞雪はそのような伝承を知らなかったが、とにかく凍える飛仙を助けてあげたい一心だった。


 幼い瑞雪は家から大量の手巾てぬぐいを掴んで、外に飛び出した。飛仙は濡れながらも塀の屋根から庭へと飛び降りたのだろう。

 薬草畑を兼ねる庭の植物はすでに枯れ、茶色い葉や茎が氷雨に叩かれていた。その下で飛仙は小さな体をさらに縮こまらせていた。


『どうしたの? 瑞雪』


 帰省していた叔母の欣然シンランが、傘を手に慌てて外に出てきた。


『あのね、どうぶつがいたの。さむいってふるえてるよ』


 小さな飛仙を瑞雪は抱き上げた。あまりにも軽くて、もし飛仙が濡れていなければ実体がないのかと思えるほどだった。


『なかにはいって、あたたかくしようね』


 飛仙はかすれた声で『……ぁ』と、か細く鳴いた。そして瑞雪の服にしがみついたのだ。


『すごいわ……モモンガ? もう絶滅しているかと思ったのに』

『モモンガってなぁに?』

『空を飛ぶことのできる動物よ。毛皮が貴重だから狩りつくされてしまったの』


 欣然の説明に瑞雪は顔をこわばらせた。


『じゃあ、この子が見つかったら殺されるの?』

『可能性はあるわね。でも、ちょっと待って。モモンガと少し違うような気も……』


 姪の小さな手に包まれている動物を、欣然はじっと見据える。その白銀の毛並みが気になるようだ。


『……この子、飛仙かもしれないわ』

『ひせん、ってすごいの?』


 油紙傘ヨウジーサンを叩く雨の音も聞こえぬほどに、瑞雪の気持ちは手の中の小動物に向いていた。


『北の村では吉兆の——とてもめでたい象徴よ。それに邪を払う神獣とする地域もあるわ。助けてあげなくちゃね』

『おばさまっ。どうしたらいい? ルイシュエなんでもするよ、おしえて』


 冷えきっている飛仙を助けたくて、瑞雪は目に涙を浮かべながら欣然シンランを見上げる。

 自分が手をこまねいて諦めたら、こんな小さな命はあっという間に消えてしまう。それが分かっているから——


『そうね山羊の乳なら飲んでくれるかしら。牛乳と違って消化もいいし、体にも障らないかもしれない。私が搾ってきてあげるから、待っていなさいね』


 欣然シンランが、土砂降りの中を家畜小屋へと向かってくれた。

 嵐の日に拾ったことと、強く育ってほしいと願いを込めて、瑞雪と欣然は飛仙に「天雷ティエンレイ」という雄々しい名前を付けた。


 天雷は元気に育ち、瑞雪と一緒に屋根に上っては月を眺め、寒い朝は瑞雪の肩に乗っておとなしくしていた。


『天雷が飛仙であることがばれると、まずいぞ』


 重々しい表情でそう告げたのは兄だ。五歳上の兄は薬舗の仕事を手伝っているから、博識だ。


『薬を買いに来た人に飛仙って知られたら、きっと皮を剥がれてしまう』


 瑞雪は悲鳴を上げた。


『どうしたらいいの? ネズミってごまかせばいい?』

『うーん、ネズミが店にいるとお客さんが嫌がるしなぁ。モモンガでも飛仙でも目立ちすぎるよ』


 兄がそういう側から、天雷は瑞雪の肩から兄の肩へと飛び移った。


『わぁー、じょうずだね』

『うんうん、ぼくのところに来たかったんだね。天雷は飛ぶのが得意だなぁ——じゃなくって!』


 うっとりとしていた兄が、我に返った。

 それから何日も、十歳の兄と五歳の妹はひたいを突き合わせて、うんうんと打開策を考えた。

 ただ一匹、状況が分からない天雷が瑞雪に体をすり寄せている。その様子が、まるで子猫のしぐさに見えた。


『わかった。ティエンレイは人がきたら、かくれてて、ねこのふりをしたらいいんだよ。ねこってすぐにかくれるから、なんとかなるよ』


 子供って怖い。突飛もない解決策を思いついた上、兄は瑞雪の考えに「名案だ」と賛成したのだから。


『いーい? ティエンレイ。ルイシュエはね、ティエンレイとずっといっしょにいたいの。わるい人にねらわれないように、がんばるんだよ』


 天雷の軽い体を抱き上げて瑞雪は説明した。黒水晶の濡れた瞳に、真剣な面持ちの瑞雪が映っている。

 かくしてその日から天雷の猫化計画が実行された。



「あのね、飛仙なら調べたことがあるのでさがしてみますね」


 葉青が、巻物や書物がぎっしりと詰まった書棚へ向かう。

 令嬢の趣味嗜好として怪談はどうなのだろう。混乱する瑞雪をよそに、葉青は書物を引き抜いた。『岷国図経みんこくずきょう』だ。

 そう、少し前に説明されたばかりなので覚えている。この岷国に存在する妖怪や鬼神を集めた書物。


 さっきまで風前の灯火のようであった葉青はいきいきと目が輝き、頰は紅潮している。

 うん、知ってた。葉青さまの不調の大半は、心理的なものが占めているって。


「ずいぶん前だけど、調べたのに。どこに書いてあったのかしら」


『岷国図経』には載っていなかったようで、葉青は次の一冊、さらに次の一冊をめくっていく。


「これですね」


 机の上で開いた頁を葉青は指さした。


 ——是吉兆的象征,并且飛仙被做尊崇


 飛仙は吉兆の象徴であり、尊崇される。その一文に続いて、邪を払い豊かさをもたらすことも記されていた。


「ほら、糞が薬になるとも書いてあります、前に調べたの」


「あ、確かに。うちでは扱っていませんでしたが、モモンガに似たムササビの糞は五霊脂ごれいしになると習ったことがあります」


 毛皮は滑らかで貴重、しかも加工が難しいが故に権力者に贈るのにふさわしい。人間からすれば利用価値は高いが、飛仙にしてみれば迷惑なことこの上ない。


(やっぱり天雷を隠していて正解だったわ)


 瑞雪は天雷に目を向けた。天雷は飽きたのかあくびをしている。暢気なものだ。

 ふいに葉青が咳き込んだ。


「横になってください、葉青さま」


 体調も考えずにはしゃいでしまったせいだろう。瑞雪は葉青を寝台に連れて行った。もし部屋に宋舞がいたらこっぴどく叱られていたことだろう。


「ごめんなさい、ルイシュエさん。つい楽しくて」


 力なく咳を繰り返しながら、葉青は笑顔を浮かべた。


「わたし、こんなだから。あたらしいお母さまにきらわれていて」


 瑞雪に布団をかけてもらいながら、葉青はぽつりとこぼした。人ではないもの、普通の動物ではないものが葉青には見えるし分かる。


「でもね、まだ赤ちゃんなんだけど、妹にはきらわれたくないなぁって思うの」

「葉青さまはお優しい方ですから。きっと妹さんも好きになってくださいますよ」

「ほんと? うれしい」


 冷たくてほっそりとした葉青の手に、瑞雪は手を重ねた。

 この子を守ってあげたい。その気持ちが、泉の底から湧く水のように生まれてきた。


 南家を辞した瑞雪は歩きながら、葉青の薬膳料理のことを考えていた。


「葉青さまの乾いた咳は、体力不足で肺の機能が低下しているのかもしれない。梨のしぼり汁が咳には効くけれど、まだ時季じゃないし」


 咳は体力を奪う。虚弱な人ならなおさらだ。

 長い塀の続く通りを歩く瑞雪の肩には、天雷がいる。本当に迎えに来たかのように、ぴったりと瑞雪の頰に寄り添っている。


「ねぇ、天雷。あなた、どうしていなくなっちゃったの? わたし、ずっと探してたのよ」


 宮城の濠にかかる橋を渡りながら、瑞雪は問いかけた。


 さすがに人目があるので、天雷を両手でそっと包む。天雷は何かを言いたそうに口を開くが、人語を解するといえど話せるわけではなさそうだ。もどかしそうに「うにゃうにゃ」と声を出している。

 猫化計画の結果がしみついている。


「あなたまでいなくなって。寂しかったのよ」


 叔母の欣然が追放された悲しみと寂しさは、数年たっても癒えることはなかった。そんな瑞雪を置いて、天雷も家を出たのだ。


 まだ小さかった瑞雪は物音がするたびに、天雷が戻って来たんじゃないかと紙窓を開けた。雨が降りはじめる土の湿った匂いがすれば、傘を持って外に走り出た。空気さえも凍りつくような朝には、襟巻である圍巾ウェイジンを握って表に出た。

 そして木の枝から天雷が飛んでくるんじゃないかと、腕を広げて待ったのだ。


『ごめんね、ティエンレイ。ルイシュエがだっこばっかりするから、いやだったの? こんどからは、なですぎないから』


 どんなに呼びかけても探しても天雷は見つからず、いつしか瑞雪は諦めた。

 それでもどこかの空の下で天雷が凍えているんじゃないか、瑞雪のことを呼んで鳴いているんじゃないかと考えると苦しくて。


「母さんは、雄猫はなわばりを広げるために家を出るって言ってたけど。飛仙もそうなの?」


 ふるふると天雷は首を振る。

 すごい、本当に意思の疎通ができるんだ。瑞雪は感心した。


「ねぇ、触ってもいい?」


 瑞雪の問いかけに、天雷はドングリのように大きく目を見開く。両手で包んでいても、天雷の緊張が伝わってきた。


「あー、嫌ならいいんだけど。ほら、わたしは天雷が大好きだったから。つい、ね」


 橋の中ほどで自分の手に話しかけている瑞雪を不思議そうに見ながら、何人もが宮城の門へと向かう。


 ——イヤ……じゃ、ない


 濠の水面を渡る風のいたずらだろうか。天雷が答えたような言葉が聞こえた。


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