第33話 奥へ
アリアに言われてようやく、俺はこの迷宮に立ち入る前にした担任とのやり取りを思い出した。
何か不測の事態で行動不可になった場合、割ればすぐ脱出させてくれる風駆の小瓶の存在を。
「でもそれってつまり……」
「ええ、担任が言っていた戦いの基本その3を無視することになる」
「常に退路を確保する、だっけか……」
こんな状況にいながらも俺は、ノーラン王立魔法学院が、魔法使いの育成に細心の注意を払っていることへ意識が向いていた。
いくら机上で魔法の使い方を学んだところで、実際の戦地にいきなり飛び込めば実力を遺憾なく発揮することはきっと出来ないだろう。
できうる限り実戦に近い状態で、できうる限りの安全策を施している。
しかし、この状況は学園が想定した事態をはるかに超えている。
本来ならばこの負傷者と共に風駆の小瓶を割って迷宮を脱出。即座に他の班も引き揚げさせるべきだが、今は事情が事情なだけにアリアの提案はありがたい。
どうしてアリアがそんな提案をしてきたのか、意図は分からないままだが、リンを助けるためならば利用させてもらうまでだ。
「そうしよう。この怪我人が迷宮から脱出すれば緊急事態なのは伝わる。自分でいうのはなんだが、俺たちは今回編成された班の中では上位の実力があると思うし、他の班を手助けするってことで先に進もう」
ミラも覚悟を決めたようで、唾を飲み込んだ。迷宮内に入ったときに感じた、美しいと思っていた景観は、今ではやけに不気味に見える。
そうしてミラは胸元から風駆の小瓶を取り出し、怪我人の近くで割った。小瓶の中から緑色の空気の波のようなものが現れ、怪我人を乗せる。
そのままぷかぷかと浮いた状態で、俺たちが来た道へと運ばれていった。
「さあ、これでもう引き返せなくなりましたね。一層気合を入れましょう」
ミラがまるで自らを引き締めるようにそういい、俺たちは先へ歩を進めた。
※
怪我人に風駆の小瓶を使用してから15分は歩いただろうか。最初のころは弱い魔物から接敵し、奥に進めば進むほど徐々に難易度を上げてくる魔物たちと接敵していたにも関わらず、今は不自然なほどになんの気配も感じない。
俺のような戦闘初心者にとってうってつけの迷宮だと感じていたころが懐かしい。
体をまだまだ動かし足りていない俺とは違い、ミラの額には汗が滲んでいる。
索敵魔法を常に発動させてくれているし、不測の事態が重なったことで一層の緊張感が襲っていることに違いない。
「――二人とも、止まってください」
無言が続いていた空間に終わりを告げたのは、ミラの小声だった。その声はどこか震えていて、俺も一気に体がこわばる。
「この先、何かいます。い、今まで感じたことのない、なにかが」
先程見たときよりも汗を浮かべるミラ。体は小刻みに震えだし、そのなにかが只者ではないことを俺もすぐ感じ取った。
「……ど、どうする?」
「どうするもなにも、行くしかないでしょう」
俺とミラの不安など知ったこっちゃないといった様子のアリアは、俺達を置き去りにでもするかのようにずかずかとさきへ進みだした。
俺達もそれについていく。
少し進むと、かなり開けた場所に出た。
地下迷宮とは思えないほどに天井が高く、全体を見渡せないぐらいには広々としている。
ずっと壁と天井に圧迫されていたからだろうか、その広間に入って一瞬気が緩みかけたその時、突如肩のあたりに衝撃が走り体が吹っ飛んだ。
「――いってえ!」
その衝撃が何によるものなのかはすぐに分かった。いきなり俺の肩を押し出した張本人にであるアリアの方を見やると、突き飛ばした俺のことなど見向きもせずに、どこか一点を睨めつけるように見ていた。
「急になんなんだよアリア」
俺の言葉に全く反応しないアリア。助け舟を求めるようにミラの方に目をやったが、ミラもアリア同様同じ一点を見ていた。
俺はつられるようにその方向へと視線を向けると、薄暗くなっていたその空間から、異様な空気が放たれていることに気がついた。
――いる。この先に、さっきミラがいっていたなにかが。
そう思った矢先、その薄暗がりの中に、三メートルは有に超える人型の影が輪郭を成して徐々にこちらに近づいて来ている。
こちらに歩を進めるたびその影は実態をおびて、そして完全に俺達の前へ現れた。
「あれれえ、一人は殺ったとおもったんだけどなあ」
気の抜けた声色とはあまりにもかけ離れたその容姿に、俺達は息を呑んだ。
獅子のような鬣をたなびかせ、自分の庭のように闊歩する立ち姿。
特徴的な二本の角は、片方がかけていてバランスが取れていない。腕や足は筋肉がぎっしり詰まっているが、腹だけが異常に膨れている。
いびつな造形を前に身震いが止まらなくなる。ゴブリンやシャドウウルフたちで実感していたちっぽけな自信は、一瞬で打ち消された。
そして俺はふと、さきほどまで自分が立っていた場所を見てみた。平地だった地面はえぐれていて、その凹みの部分に紫色の溶液が溜まっていた。その溶液からは湯気がでていて、沸騰するようにぶくぶくと泡立っている。
なんの液体かはわからないが、それが危険なものであることは、本能が直感した。
そうしてようやく、アリアが俺の命を救ってくれたことに気がついた。
「あ、ありがとう、アリア」
「今はお礼なんていい、それより、あいつをなんとかしないと」
いつも余裕綽々のクールお嬢様といった印象のアリアだったが、今はその面影は一切ない。
「貴様は一体何者だ」
決して大きくはないが、よく通る声でアリアが問うた。しかし眼の前の化け物はまるで俺達などいないもののように
「なんだか懐かしい気配がしたんだけどなあ。魔王様からの指令も随分ないし……うーん……」
アリアの言葉を華麗に無視して、独り言を続ける。
魔王、という単語に、アリアとミラが明らかに動揺していることが見て取れた。
「またあそこに戻るのもなあ。んでも指令もねえし……。せっかくだあ、侵入者だけ殺してからまた指令をまてばいいかあ」
そうやって独り言を言い終えると、宙を眺めていた視線が瞬時にこちらに向けられた。その瞬間、全身に悪寒が走り、どっと汗が吹き出した。
俺はこの感覚を知っている。この世界に来たときに初めて受けた、あの感覚。
脳裏には、炎の男の姿が浮かんでいた。姿形は違えど、あの男とそっくりな圧。そして刺すような殺気。
本能がそうさせたのだろうか、俺は気がつけば腰に刺していた剣を抜いて、臨戦態勢を取っていた。




