第32話 異変
声の聞こえてきた方へ走ってすぐ、通路の真ん中にうつ伏せで倒れている人の姿が目に入った。
その人の元へ駆け寄ると、服の背中部分が真っ赤に染まっているのが目に飛び込んだ。
もしも元の世界だったなら、スマホを取り出して救急車を呼んで指示を仰げばいいところだが、あいにくの異世界ではそんな便利なものはない。
どうすればいいのか逡巡している俺を差し置いて、ミラがなんの迷いもなくその人の元へ駆け寄り、血の付いた部分の服をたくし上げて傷を確認する。
背中は血塗れになっていて、一面を染め上げていた。
血は今この時も体内から漏れ出ていて、このまま放置していては命の危険があることは、素人の俺にも分かる。
「大丈夫ですか? 意識はありますか?」
傷の確認と同時に意識があるかどうかを確かめているその様子は、実に手慣れている。
あの森で命のやり取りを日常的に行っていたミラにとって、負傷者の手当は当然身についてしかるべきということか。
「う……うぅ……」
ミラの言葉に対して反応するというよりは、ただ呻いているように聞こえるその声には苦痛が滲んでいる。
「今、応急処置を施しますから、もう少し我慢してくださいね」
鬼気迫る声でそう語りかけるミラ。傷口に対して両の手をこれでもかと開いて翳す。そうして目を閉じて小さく呟いた。
「この身に宿る穢れを払い、あるべき形へ帰せ――癒之光」
ミラの手元が優しい緑色に光ったその瞬間、先ほどまでドバドバとあふれていた血液は勢いを弱め、やがて完全に停止した。
ほんの一瞬の出来事だったが、ミラの額は汗でびっしょりになっている。
「み、ミラ、この人は大丈夫なのか?」
「ひとまずは大丈夫だと思いますが、傷が思ったより深いです。はやく治癒師に見てもらわないと、どうなるかはわからないです。私はこういうのは専門外なので、簡易的な処置しかできなくて……」
「今出来ることはこれだけか。それで、これからどうする? この人をいち早く迷宮から連れ出さないといけないわけだけど……」
そこまで言ったところで、ミラと目が合った。どうやら俺たちが悩みは同じようだ。
俺とミラがこの迷宮に潜っているのはあくまでリンを救出するためだ。今ここで来た道を引き返すとなると、リンの救助がかなり遅れることになる。
相手が何者かすらわかっていない現状、これ以上探索に時間をかけるわけにはいかない。
しかし、目の前の死にそうになっている人を置いていくわけにもいかない。
一体どうすれば……。
「オルピクソン、その人の体を仰向けにして」
慌てふためく俺とミラと違い、相変わらずの無表情で一連のやり取りを傍観していたアリアが、不意に口を開いた。
「ど、どうしてですか?」
「いいから、早く」
アリアの突き刺すような圧に押され、体をゆっくりとひっくり返すと、そこには全く見覚えのない顔があった。
「だ、誰だ、この人? 確か今日って、学園の貸し切りだったよな……こんな人、見たことないぞ」
「確かに、私もまったく見覚えがありませんね……。一応、一度見た顔なら忘れないんですが」
アリアは視線を走らせ、訝し気な表情を浮かべていた。俺の視線に気が付いて、いつもの無表情へと戻る。
こんな時だってのに、何をそんな気にしているのか。
「この人はおそらく、私たちの班の監視員。ここに入る前に担任が言っていたでしょ、迷宮内部を視認していると。おそらくその役目を担っていた人物。入ったときからずっとつかず離れずであった気配が今は感じられないから、おそらく間違いない」
「え、ちょ、ちょっと待ってくれ。俺たち迷宮に立ち入った時から誰かからつけられてたってことか? どうして教えてくれなかったんだ」
「特に害意も感じられないし、担任の言葉もあるからいちいち言う必要はない。それに、このことならオルピクソンも気付いていた。それより今は、この人をどうするか」
まさか、気付いてなかったのは俺だけ……今はそれどころではない。この女性をどうやって迷宮内から連れ出すか、その方法を考えることが先だ。
「私の風魔法で1人までなら担ぐことが出来ます。それで、来た道を引き返すしか……」
「で、でもそれじゃ……」
俺たちの懸念することは言うまでもなく、リンのことだ。だが、事情を知らないアリアがいるこの状況ではそれを口に出すわけにはいかない。
そんな内情を知らないアリアだが、言い淀んでいる俺たちに対して懐疑の目を向けている。
この状況で中断しないなどあるはずがないのに、躊躇っているのは怪しく映って当然といえる。
しかし、どうしても今中断するわけにはいかない。この状況下での俺たちの最善策、それはアリアがこの怪我人を背負い迷宮を離脱することにある。
なにかうまく言いくるめられないかと、ミラに助けを乞うように目線を向けると、ミラも同様に困惑の表情を浮かべている。
目線で会話を図ろうとしているのはもはやバレバレで、アリアは一層訝しい目で俺たちを眺めている。
だが、その不自然な沈黙を破ったのは、意外にもアリアだった。
「迷宮探索を続行させられて、なおかつ怪我人を迷宮から離脱させ、この緊急事態を外に知らせる手段なら一つしかない」
それは俺たちにとって願ってもないことだ。どうしてアリアがそんな提案をするのかはわからないが、今はそれに縋る他ない。
「アリア、それはどういう手段なんだ!」
「……風駆の小瓶をその怪我人に割らせて、その人だけを迷宮から連れ出してもらう」




