第1章 夏のはじまり
第1章 夏のはじまり
2025年、夏。
エナは、音楽科のピアノコースに通う高校2年生。
最近は、ピアノよりも映像制作に夢中だ。
世間はお盆休みに入っているというのに、この日もエナは映像研究部の部室で、麦茶のペットボトルを片手に編集作業を続けていた。
夏休み明けの文化祭で上映する映像作品は、まだ半分も完成していない。
蝉の大合唱がコンクリートの壁に反響し、校内に響き渡っていた。
「ここ、もっと“昭和感”出して」
蝉の声に混じって、佐久間先生からの指令が届く。
顧問の佐久間先生は、筋金入りの昭和カルチャーおたくだ。
その影響で、文化祭で上映する作品も、昭和をテーマにしたものになっていた。
部室の壁には、『太陽にほえろ!』や『男はつらいよ』の“エモい”ポスターたちが、壁紙のように並び、BGMには、先生のレコード・コレクションから昭和歌謡が流れていた。
(昭和って、そんなにいいのかな…)
心の中でつぶやいた――つもりだった。
「ん? 何か言ったか?」
佐久間先生が顔を向ける。
「えっ、心の声、漏れてました?」
「エナは心の声の音量が大きいんだよ。この前も『このシーン、ダッサ』って聞こえてきて、先生、ちょっと心が折れかけたぞ」
「ご、ごめんなさい。でも…あのシーンは、本当にダサかったです」
「正直だなあ」
と苦笑している佐久間先生の肩に、小さな蝉が止まった。
まだ体が淡い黄緑色をしている。きっと、羽化したばかりなのだろう。
(かわいい…)
エナが見とれていると、佐久間先生は、自分の話を真剣に聞いてくれているのだと思い込んだらしい。
肩の蝉にはまったく気づかないまま、ますます熱を込めて言った。
「エナなら、面白い作品にできる。昭和を知らないからこそ、見えるものもある」
「え…」
昭和のことなど、ほとんど知らない。
そんな自分に何が見えるのだろう。
エナが戸惑っていると、
ジジ…。
小さな羽音を立て、蝉が佐久間先生の肩から飛び立った。
まだ少しおぼつかない羽ばたきで、それでも懸命に窓の外へ向かっていく。
「うわっ、蝉! いつからいたんだ?」
ようやく気づいて慌てる佐久間先生には目もくれず、エナは空へ飛び出していく蝉を見つめていた。
生まれたばかりなのに、迷うことなく、大きな空へ向かっている。
「…はい。やってみます」
その日は、8月14日。
終戦から80年目の夏。
蝉が飛び立った先には、大きな入道雲が、空へ向かってゆっくりと伸びている。
どこか懐かしい空だった。
けれど、何を思い出しそうなのかは、自分でもわからない。
そのとき。
「この映像、まだ“昭和のかほり”が足りないんだよな…」
また佐久間先生の声が飛んできた。
香りではなく、わざと古めかしく「かほり」と言っていることに気づき、エナも律儀に同じ言葉で返してみる。
「…かほり、ですか?」
「そう。画面から漂ってくるような、風情というか、郷愁というか…そういう“かほり”だよ」
エナは思わず笑ってしまう。
部室には、夏の熱気と、編集機材の排熱と、佐久間先生の「昭和愛」のかほりが、たしかに濃く充満していた。
そのとき、佐久間先生のスマートフォンから、明るい電子音が流れた。
画面には、大阪・関西万博の映像が映っている。
世界各国のパビリオン。
未来の乗り物。
人間そっくりのアンドロイド。
「そうだ。エナ、明日、万博へ行ってみないか?」
「万博に?」
「“昭和から見た未来”と、“未来から見た昭和”。その両方を見れば、作品のヒントになるかもしれない」
「先生も行くんですか?」
「先生は、明日も学校だ」
「自分は行かないんですか?」
「大人には、青春と引き換えに仕事というものがある」
「文化祭の準備を後回しにしていたからですよね?」
「それを世間では、仕事と呼ぶ」
佐久間先生は、机の引き出しから一枚の入場チケットを取り出した。
「知り合いからもらったんだ。せっかくだから、エナが行ってこい」
「ひとりで?」
「ひとりだから見えるものもある。カメラを持って、自分が面白いと思ったものを撮ってくればいい」
エナは、差し出されたチケットを見つめた。
昭和のことさえ、まだよくわからない。
そのうえ、今度は未来を見てこいという。
「先生の注文、どんどん大きくなってません?」
「芸術家は、注文が大きいほど育つ」
「それ、今考えましたよね?」
「半分くらいは」
エナは笑いながら、チケットを受け取った。
スマートフォンの画面では、少女の姿をしたアンドロイドが、来場者に向かってほほえんでいる。
その瞳が一瞬だけ、画面の向こうのエナを見たような気がした。
「今、この子…」
「どうした?」
「いえ。なんでもありません」
窓の外では、さっきの蝉が、どこか遠くで鳴いていた。
明日、エナはひとりで万博へ行く。
未来を見るために。
そこで出会うアンドロイドに、50年前の夏へ連れていかれることになるとは、まだ知らずに。




