脱出作戦
グラックスが入院患者の急変に対処しているちょうどその頃、ゴダール諸島の最も東にある無人島の入り江に、海の上を動く小島がゆっくりと入っていった。その動く島は、ルナデアの海上要塞である浮き城だ。
ナブー女王やオズマン、ピガンダが推測した通り、ルナデアの次の標的はゴダールのアグーであった。様々な計略を巡らし、周到に準備を進めてきたクレスたちは、オズマンの予想よりは少し遅れて、このゴダール諸島の海域に姿を現したのだ。百以上もある島々からなるゴダール諸島は、浮き島ごとその身を隠す場所に事欠かず、ゴダールの者たちに知られることなく、クレスたちは島影に浮き島を隠すことができた。
その浮き城の上の閉ざされた部屋の中。波の揺れが小さくなり、浮き城が動きを止めたことに気づいたアルゴが鼻をひくひくと鳴らした。
「止まったようだな」
ゼルマンの言葉を無視して、アルゴはまだ鼻をひくつかせている。
「どうした、何か臭うのか」
「わからないか」
そう言われて、ゼルマンも鼻をひくつかせてみるが、すぐに顔を振った。
「相変わらず潮の匂いがするだけだ」
「微かに草の香りがする。おそらく、ゴダールのどこかの島の近く、波が穏やかなところに留まっている」
「ほんとうか」
もう一度ゼルマンは顔を振って匂いを嗅いだが、「俺には分からん」と言った。
「ゼルマン。やるなら、今夜だ」
アルゴの顔を覗きこんで、「本当にやる気なのか」とゼルマンが訊いた。
「ああ、もちろんだ」
目を細め、自信ありげに言うアルゴを見て、ゼルマンは眉間に皺を寄せた。
アルゴがやろうとしていること。それは、ミロイを含めた三人で、このルナデアの浮き島から脱出することだった。
確かにアルゴの言っていた通り、肌を突き刺すような寒気が強くなったことから考えてみれば、浮き島がゴダール諸島の海域に来ていることは容易に想像することができる。ゴダール諸島はアレフォス島よりも遥か北西に位置しているはずだからである。三人には、寒さが厳しくなってから防寒用の厚手の上着とズボンが支給されていた。海上を吹き抜ける風は、露出している肌を切り裂くような冷たさを纏っている。
浮き島がゴダール諸島に来たことはアルゴの言う通りかもしれないが、アルゴが考えた脱出の作戦とは、ゼルマンに言わせれば、出たとこ勝負の、作戦とも呼べない代物だった。
アルゴがゼルマンに耳打ちした作戦は、こうだ。
まず、ミロイに薬を飲ませる。その薬は、ルマン島でアルゴがルナデアの工作員から渡された物で、飲めば一瞬で酩酊状態になってしまうというものだった。ある作戦で使用するものだったが使わずに済んでしまい、返せともいわれなかったので、薬の入った小瓶をそのままずっと懐の奥に忍ばせていたのだ。
「それがこんなところで役に立つとは、捨てなかった俺を褒めてやりたいぜ」
と、アルゴは鼻を膨らませたが、ではその薬をミロイに飲ませてどうするのかというと、「ミロイが倒れた」、と部屋の外にいる見張りに告げ、部屋に入ってきたところをアルゴとゼルマンでその見張り役を倒す。ミロイを担いで外に出て、浮き島に繋がれている小舟を奪って近くの島に渡り、見つかりづらい夜にだけ島伝いに逃げて行けば、いずれゴダールの大きな島にたどり着く。百を超える島があるというゴダール諸島なら、身を隠せる島はいくらでもあるだろう。というのが、アルゴの考えた脱出ルートである。
クレスに心を読まれてしまう可能性があるため、ミロイにはこのことは話していない。ミロイに薬を飲ませて酩酊状態にするのも、意識の無い状態であればクレスに操られることもないだろうと考えてのことである。アルゴとゼルマンは予備として生かされているだけだから、いまさら心を読まれることも無いはずだ、とアルゴは言った。
毎日の食事の中から保存のきく食材を蓄え、一週間分の水と食料は確保してある。
そんなに上手く、事が運ぶだろうか。いや、無理だ、とゼルマンは思った。
「ゼルマン、いいか、今夜だぜ」
アルゴのささやきに、ゼルマンは否定的な考えを言葉にしようとして、ちょっと躊躇った。
成功する確率はゼロに近いかもしれない。だがしかし、何もしなければ、何も変わらない。クレスたちはゴダールを襲うつもりだろうし、その襲撃に、ミロイが貴重な戦力として使われるのは間違いない。そしてミロイの存在が重くなればなるほど、アルゴとゼルマンの価値は下がり、不用品は海に捨ててしまえ、ということにもなりかねない。
…どうせ死ぬなら、やってみるか。
アルゴの言うとおり、今が千載一遇のチャンスなのかもしれない。そう思い直したゼルマンは、静かに頷いた。
無謀としか思えないアルゴの脱出作戦。だがこれが、意外にも上手くいってしまったのである。
食べ終えた夕食が下げられてから、何も知らされていないミロイに、「とにかく、俺たちを信用してこれを飲んでくれ」と言って小瓶の液体を飲んでもらう。二人を見ながら少し考えていたミロイだったが、意を決したように液体を喉に流し込む。しばらくすると、ミロイの頭が左右に揺れだし、食べたばかりの夕食を吐き出して、意識を失った。その姿を見たゼルマンが、本当に大丈夫なのか、といった顔でアルゴを見ると、アルゴは少しためらいがちに頷いて、外に向かって叫んだ。
「お、おい、ミロイ、しっかりしろ、大変だ、ミロイが倒れた、誰か、誰か来てくれ」
アルゴは扉に飛びついて、「大変だ、ミロイが大変だ、誰か来てくれ」と叫び続けた。
声を聞きつけてやってきた見張り役が二人、部屋の中の様子を覗きこんでミロイが倒れているのを確認すると、鍵を開けて中に入ってきた。
「いったいどうしたんだ」
見張り役の二人は、突っ伏しているミロイを起こして、「おい、大丈夫か」などと声をかけている。その様子を見ながら、物音を立てないようにアルゴとゼルマンが二人の背後に回り、目配せをして、同時に後頭部を殴りつけると、見張り役はあっけなく伸びて動かなくなった。
アルゴは廊下に顔を出して、ほかの見張り役が来ないことを確認すると、伸びている見張り役の服を脱がして着替えはじめ、ゼルマンにも早くしろと目で促した。下着姿になった見張り役をベッドに寝かせ、毛布で覆ったミロイを担ぎ上げたアルゴは、ゼルマンとぴったり寄り添い、辺りを確認しながら部屋の外に出ていった。
脱出用に奪おうとしている小舟は、五角形をしている浮き島の、アルゴたちがいた建物から見ると一番長い対角線の先に繋がれていることは確認してあった。中央の広い空間を横切れば最短距離で行くことができるが、人目につく恐れがある。アルゴたちは、浮き島の外周をぐるりと囲んでいる建物の外側の壁際に沿って、見張り役が巡回をしている風を装って慎重に歩いて行く。ところどころに固まって凍っている雪があって歩きづらい。
ふいに建物の切れ目から、同じ見張り役の格好をした男が現れ、アルゴたちに気付いて、「お」と声を上げた。アルゴとゼルマンは立ち止まって息を呑んだ。
「見回りかい。ご苦労さん。それにしても、寒いってもんじゃないな」
男は股間をまさぐり、夜の海に向かって用を足しはじめた。
「今日は非番だったんで、吞みすぎちまった」
「呑んでせっかく暖かくなったのに、外に出たら冷えちまうんじゃないのか」
ゼルマンを横目で見ながら、アルゴがうわずった声で言った。
「酔い覚ましに外に出ようと思ったのに、凍え死にそうだ。しょうがない、また、吞みなおすか」
「呑みすぎるなよ」
「分かってるよ」
アルゴが通り過ぎようとすると、男が背中越しに、「その、担いでる荷物はなんだい」と尋ねてきた。
アルゴとゼルマンが緊張した視線を合わせる。だが二人とも立ち止まらない。
「ああ、これ、これね」
アルゴが取り繕うように言葉を絞り出した。




