あの日のこと
揺らぐ炎を見つづけるポト。
何事も起きないまま、かなり時間が経ったように思いはじめたとき、耳の奥で金属音のような音が、微かに鳴っていることに気付いた。
視線は炎に合わせたまま、わずかに聞こえる金属音に意識を向けると、突然、耳をつんざくような耳鳴りが頭の中を貫いた。何本もの音の槍が頭に突き刺さったような痛みに思わず目を瞑ると、夕暮れの柔らかな光に満ちた部屋の中の光景が見えてきた。
「さあエノン、ジラン、夕食の前のお祈りを」
肩に手を添え、そう優しく語りかけたのが誰なのか、はっきりと分かる。紛れもない、母さんの声だ。
前に立っていた背の高い女の人が振り向いて、次はジランよ、というように首を傾げた。ああ…。エノン姉さん。
エノンが横に移ると、ふくよかな女性を象った木彫りの彫像が、壁に開けられた棚の上に置かれているのが見えた。頭には三日月をあしらった飾りをつけ、ゆるく波打つ長い髪が腰まで垂れている。気品に満ちた顔は真正面を向き、右手のひらをそっと前に向けているその姿が、人ではなく神だと思えるのは、背面から伸びる三つのふさふさとした大きな尾がうねりながら伸びているからだった。
「月におわしますアビ様。過去と今が、いい未来に繋がりますよう、お導きください」
自分の口から、いつも唱えている言葉がすらすらと出た。
ふと、いい匂いが漂ってきた。
ゴーラの実と焼いた魚やエビを煮込んだスープが、目の前のテーブルに置かれた夕食の情景に切り変わっている。母さんの自慢の手料理だ。
その味が口に広がると、場面は庭にあるトイレに向かって歩いている光景にまた切り替わった。満月の明かりに照らされて、風になびく草むらがきらきらと輝いている。
ふいに、俺は足を止めてしゃがみこんだ。
なぜか鼓動が早鐘のように乱れ打ち、息が苦しくなってくる。
突然、家の方で怒号とともに木が折れる激しい音がして、母と姉の叫ぶ声が聞こえた。家に向かおうと思ったが、思わずその場に座り込んだ。
やがて、数人の男たちに引きずられた母と姉が出てくると、そのままどこかに連れ去られて行ってしまった。後を追おうと思っても、恐ろしさで足が立たず、声を上げれば見つかってしまいそうで、その場から動けないまま、俺はずっと咽び泣いていた。
かなり長い時間が経ち、誰かがやってくる音が聞こえて、俺はまた身を固くした。
辺りを警戒しながら家に近づいたその人は、扉を壊された家を見て、「そんな…、どうして、どうしてこんなに早く…」と震える声をあげた。その声に、聞き覚えがあった。
「ラウス兄さん…」
草むらから立ち上がってそう声をかけると、その人がこちらを向いて駆けよってきた。
「ジラン。無事だったのか」
ラウスにきつく抱きしめられて、俺は声をあげて泣いた。
「エノンたちは」
「知らない人に、連れて行かれた」
「そうか…」
ラウスは、エノン姉さんの婚約者、将来を誓い合った人だ。
「ジラン…、すまない。俺は、大変なことをしてしまった…」
「何を、したの」
ラウスは答えず、横を向いて、しばらく何かを考えていた。
「よし、行こう」
「え、どこへ」
「バハリさんに、頼まれたんだ。とにかく、ジランだけでも助けないと」
ラウスは俺を抱え上げ、走り出した。
また映像が切り替わった。
空の瓶を詰めた木箱に布を敷き、ラウスが俺をその上に横たえ、さらに布をかけた。床が揺れているから船の中らしい。
「ジラン。アビが…、アビが、きっとお前を守ってくれる。…きっとだ」
潤んだ目のラウスを見つめ、俺は小さく頷いた。
きつく口を結んだラウスが最後に優しく微笑むと、そこで目の前は真っ暗になった。
気がつくと、床が目の前にあった。どうやら床に倒れこんでしまったらしい。
「大丈夫ですか」
起き上がろうとすると、ラウスが助けてくれた。髪に白いものが混じり、頬がこけて髭が伸びているが、青年だったあの頃の面影が残っている。
「ラウス、兄さん、だったんだね」
その言葉を聞いたラウスは目を瞠り、顔をくしゃくしゃにして、ポト、いや、ジランを、あの日のようにきつく抱きしめた。
「全部、思い出したのか」
「いや」
ラウスの手を借りて椅子に座りなおし、ジランは脳裏に映った映像のことを話して聞かせた。
「そうか…。一番つらい記憶、最後に見た光景が、蘇ったのかもしれないな」
前に座っているエルシェがグラスを差し出した。
「これを飲むといい。気分が落ち着くはずだ」
額にびっしょりと汗をかき、目が回るような気分が続いていたジランは、出されたグラスの液体を一気に飲み干した。口に広がる酸味で、いくらか吐き気が抑えられた気がした。
ジランの隣に椅子を持ち出して座ったラウスは、落ち着きを取り戻したジランの様子を見て、口を開いた。
「あの日、何があったのかを話さなければならないね」
ジランはまだ小さかったから分からなかったかもしれないし、そもそも記憶が戻ってないのだから知らないと思うが、ルナデアに太古から暮らしている我らマツイ族は、後から島にやってきたベントス人のクロエ王家に支配されている。
クロエ王は、鉱山や精錬所、農園や漁業で俺たちを働かせて搾取する、それが何百年も続いているんだ。
なぜ、そんな支配が何百年も続いているのか、そう疑問に思うよね。
それは、彼らが強力な武器を持っていたからだ。
それまでマツイ族の人たちが見たことも無い、鉄器と火器を使って、無理やり服従させられたんだ。武器になる鉄製品や火薬は、マツイ族には手に入れられないように厳密に管理して、たとえ抗ったとしても武器を持たないマツイ族を簡単に鎮められるように、やつらはずっと抑えつけているんだ。
俺は十七になって、南にある赤い鉄鉱石が採れる鉱山に送られた。固い岩を、つるはしで叩きつづける重労働だ。しかも、逃げ出したり、暴れたりしないように、足首には金属製の重りがつけられていた。
そう、そこに、ジランのお父さんのバハリさんが一緒にいたんだ。
俺は最初の三日間で手にできたマメを潰してしまって、手に包帯を巻きながらつるはしを振り下ろしていたんだけど、さらに皮が剥けて、どうしようもなく痛くて、作業もままならなくなっていた。
そんな俺を、ベントス人の見張り役は目ざとく見つけた。今でもあの顔は忘れない。四角い顔で口の周りはひげだらけ、腹がぷっくり出た大きな男だった。
そいつは、いきなり俺を蹴り飛ばした。「ダラダラやってるんじゃねえ」と唾を吐きながら、うずくまった俺の腹をもう一度蹴り上げた。
俺は「手の皮が剥けたんです」と、必死で叫んだけど、「我慢してりゃぁ、そんなもんは慣れちまうんだよ」とそいつは言って俺を立ち上がらせ、「さあ、さっさと働け」と俺を投げ飛ばした。
俺は、どうしてこんな理不尽な扱いを受けなければならないのか、って、悔しくて、悲しくて、でも、働かなきゃと思った。俺の作業量が減れば、それは誰かの負担になる。その日の目標に届かなければ、みんなの給金が減らされるんだ。そう思って立ち上がりかけたとき、目の前に、拳くらいの大きさのごつごつした石が落ちていた。
俺はその石を手に取ると、後ろを向いていたあの見張り役の頭に、衝動的にぶち当てた。
どうしてそんなことをしたのか、あの時も、今も、分からない。
ふと見ると、その見張り役は頭から血を流して倒れていて、ぴくりとも動いていなかったんだ。




