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BOUNDARY ~境界線~  作者: 八木 康
ゴダール諸島
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翳り

 カップを口から離したラウスが、「ほう」と言ってカップの中身を見た。

「アレフォス島のバフ茶ですか。珍しい。ガボア茶かと思っていました」

「オズマン様がこのバフ茶のミルク割りが好きでね」

 カップをテーブルに置いて身を乗り出すと、ラウスがまっすぐにポトを見つめた。

「ポトさん。ご自分の過去を思い出したくありませんか」

 いったん視線を外したポトは、テーブルの上を指で、こつこつ、と叩いてからラウスに視線を戻した。

「特に興味はないね。俺には拾われてからの記憶で十分だ。過去を知ったところで人生が変わるわけではなし、この境遇に、俺は満足している」

「嘘ですね」

「なにっ」

「オズマン・ブリューワの下僕で一生を終わる人生に、満足できるはずがないでしょう」

「そんなことはない。俺の気持ちなど、あんたに分かるわけはないだろう」

 ラウスは少し微笑んで、背もたれに体を預けた。

「オズマン・ブリューワは、日ごろから、『ポトが実の息子だったらどんなに良かっただろう』、『ブリューワ家をポトが継いでくれたらいいのに』と言っているそうですが、実際には、ルマン島で博打に溺れ、どこの馬の骨とも分からない女と良い仲になったバカ息子を跡取りにした。口当たりの良いことを言って、あなたを召使い同様にこき使って、飼い殺しにするつもりなのは明らかじゃないですか」

 ポトの目元がぴくぴくと引きつった。

 ラウスの言った通り、オズマンはよくそういう言葉を口にしていた。

『デニスとポト。同じように育ててきたつもりだが、どうしてデニスは、いつまでもポトのようなちゃんとした大人になれんのだ』

『ポトがブリューワ家を継いでくれたら、わしも安心して眠れるんだがな』

『出来の悪いデニスでも、ポトが支えてくれれば心強いよ』

 十歳の頃にオズマンに拾われ、同年代のデニスと兄弟同然に育てられてきた。

 だがいつしか、…いや、はじめから分かっていた。

 デニスは血を分けたブリューワ家の惣領息子。俺は素性の知れない拾い子。オスマンの心がどうあろうと、サンヤット王家の血統であるブリューワ家の家督を継ぐのがデニスであることは揺るがないのだ。

 だが、俺に家を継がせたかったと、ことあるごとに口にするオズマンの言葉は、たとえそれがつい言葉に出た本音であったとしても、絶えずポトの心を波立たせずにはいられなかった。

 そんなポトの内面を見透かしたように見つめるラウスが、薄気味の悪い化け物のように見えた。

「オズマン様に拾われなければ、俺は間違いなく果ての無い海原で、たった独りで死んでいたんだ。この恩は、一生かかっても返しきれないと俺は思っている」

「そんな義理はないでしょう。オズマンの奴隷として、この先の人生を送る必要はありませんよ」

 ポトがラウスの話を手で制した。

「ありがとう、面白い話だったよ。もう十分だ」

 ふうっ、ラウスは息を吐いた。

「私の仲間なら、あなたの失われた過去の記憶を取り戻すことができるかもしれない。もしその気になったら、港近くにあるシナイ商会の事務所を訪ねてきてください」

「俺に過去の記憶を取り戻させて、何をさせようとしているんだ」

「それはポトさんが記憶を取り戻して、ジラン・カミールになったときにお話ししましょう。それからどうするか、それはそのときに考えればいい。正直な話、あなたが我々の味方になるかどうかは、たいして重要なことではない。どちらかというと私個人の思い入れの方が強いのです」

 立ち上がり、ドアに向かって歩きかけたラウスが振り返った。

「ひとつ、忠告をしておきましょう」

 振り向いたポトをラウスが見下ろしている。

「私が素性を明かしたことは、当然かなりのリスクを(おか)しています。その保険として、ポトさんは常に監視されていると思ってください。もし怪しい動きをすれば、ポトさんの近しい人に危険が及ぶことになる」

「脅しか」

「ええ、もちろん。そうやってあなたを強引にこちらに引き入れることもできたが、私はあなたに自発的に動いてほしいと思っています。私の命の恩人のご子息ですから」

 ポトが目を逸らすのを見届けて、ラウスはズミーヤ号から出て行った。


「遅かったな」

「すいません」

 机に向かって書き物をしていたオズマンは、戻ってきたポトから書物を受け取ると机の上に広げて慌ただしく中身を確認しはじめた。

「この中に、書き留めたものがあるはずなんだが…」

 そう呟いたオズマンは手に取った一冊のノートを広げて、「おお、これだ、これこれ」と言って眼鏡をかけ、食い入るように書かれた文字を追っていった。

 ポトの存在を忘れてしまったかのようなオズマンの背中には、興味のあることに夢中になっている少年のような熱気があった。

「そういえば、ルマン島に行くはずだった船をアレフォス島に向かわせるという話はどうしましょうか」

 聞こえていないのか、オズマンは顔を上げる気配もない。

「オズマン様」

「ん、なんだ」

 やっと声だけ帰ってきた。

「アレフォス島に医薬品や食料などの支援物資を送り、木材を調達して帰るという話はどうしましょうか」

「ああ…。お前に任せるよ。デニスがルマン島に派遣されている間、交易関係はお前がやってくれれば、やつの代りは十分に務まる。好きにやったらいい」

 そう言ったオズマンの背中を、ポトはしばらく無言で見つづけていた。その目に悲しい(かげ)りが差すのを、オズマンが気づくことはなかった。


 それから十日ほど経った日の宵闇時。港近くの商店が並ぶ一角に、ポトの姿があった。

 雪は降っていないが、頬に当たる風が刺すように冷たい。

 ポトが見上げる視線の先、薄汚れた壁に掛けられた看板に、「シナイ商会」と書かれた文字が見える。小さな文字がようやく読めるほどに暗がりが濃くなっていた。

 看板から目を離したポトは、左右を見回して辺りに人がいないことを確認してから、ゆっくりと扉に手をかけた。

 これは裏切りじゃない。俺はゴダールを売るつもりは毛頭ない。ただ過去の自分を知りたいだけだ。

『ジラン・カミール』

 名前を識別するための文字の羅列、単なる符号。聞き覚えが無ければ、感慨も何も湧くことはなかった。

 だがしばらく経つと、『ジラン・カミール』という言葉が頭から離れなくなってきた。かつてそう呼ばれ、そう応えていたかもしれないと思うと、顔の定かでない誰かが「ジラン」と呼んでいる夢を何度も見るようになった。

 失った記憶が蘇る、ということは、単に空白だったところに、ぴたりと何かが嵌まるというだけではない。本当の自分は、何者だったのかが分かるということなのだ。

 それが分からなくても、これから先の人生に支障があるわけではないし、過去を思い出すことをあきらめてからは、もう過去の自分を切り離して生きて行こうと心に決めていたはずだった。

 だが、失った記憶を取り戻すことができるかもしれない、と聞いた途端にポトの心はざわついた。

 過去の記憶を持たないということは、支えの無い不安定な台の上にふらふらと立ちながら、今にも真っ暗な闇の中へ落ちていく、そんな心もとなさが全身を包んでいくような感覚にずっと囚われつづけているということだった。

 しっかりと足を地に着けて立つために、土台である過去の自分を知りたい。その欲求は日増しに強くなり、その想いにポトは抗えなくなっていた。

 失った記憶を取り戻してから、その先のことを考えればいい、とラウスは言っていたが、もちろんそうさせてもらうつもりだ。記憶を取り戻すだけでルナデアの味方になるわけではないのだから。

 そう胸に言い聞かせながら扉を引こうとすると、扉の横の摺りガラスがオレンジ色に揺らめいた。


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