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BOUNDARY ~境界線~  作者: 八木 康
ゴダール諸島
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ギリコ

 ヴァンタレーの町に、飯屋兼飲み屋といった感じの店があった。

 その店の窓際で、ひとり酒をあおっている若者がいる。

 この店は、魚介類や野菜、香草をガボア油で煮たポックルという料理が定番の店で、今夜も海軍に従事している者たちなどで席はいっぱいで、笑い声や怒鳴り声のような大きな声が錯綜していた。

 窓の外をぼんやりと見ながら、独りぽつんと座っている若者はそんな喧騒を気に留める様子もなく、揚げた魚の骨と小さなパンをかじりながら、グラスの酒を口に流し込んでは長い前髪をかき上げ、虚空を睨んで大きなため息をつく。そんなことを繰り返していた。

「これはこれは、シャルロさん。また独り酒ですか」

 上から声をかけられ、シャルロはゆっくりと声の主に視線を向けた。

「…ああ。ギリコさんか」

 気怠るく呟いたシャルロに構うことなく、ギリコは椅子を引いて前に座ると、不自然なくらいに口角を上げて笑顔を見せた。

 うねりのあるこげ茶色の髪にべっとりと油をつけて後ろに流し、細い顔に切れ長の目が印象的なこの男。

 ギリコはルマン島に本店があるシナイ商会の者で、薬の原料となる植物や昆虫、鉱物などを採取して取引する仕事をしていて、グラックスの診療所にも出入りしている。なので、シャルロとも診療所で顔を合わせてはいるのだが、シャルロが外で食事をするときによく使うこの飯屋兼居酒屋にも度々姿をみせていた。そのたびに、今日と同じようにシャルロの前に座り、一方的に他愛のない話をしゃべり続け、帰り際にシャルロの分も金を払って帰っていく。うっとうしいとは思っているのだが、振り払うこともできず、なんだかんだといって人恋しいシャルロは、ギリコとの会話をほぼ聞き流しながら時を共にしているのだった。

「また、やけ酒ですかぁシャルロさん。体に悪いですよ、今日はいったい何があったんです」

 回ってきた店の従業員に、唾を飛ばしながらポックルと酒を注文したギリコが訊いた。

 感情的になってライアンを叩きのめし、グラックス先生に静かにたっぷりと説教された。そのせいでジン王女は診療所に来なくなり、逆にライアンが王宮でジン王女とパラレの修行をするという最悪の結果になってしまったのだ。

 ただでさえ海軍に従事する者たちの怪我の治療で目が回るほど忙しく、心身ともに疲れ果てているのに、拠りどころの無い心が今にも折れてしまいそうで怖かった。何かをしなければと思うが、何をすればいいのか分からない。

 結局、頭の中がぐるぐると回転するほど酒を飲んで、いっときでいいからすべてを忘れたい、と、短絡的に酒に手を出すくらいしか思いつかなかった。今のシャルロにとって、現実を逃避することができる唯一の処方箋が、酒を浴びるように飲むことだったのである。

「ははぁ。恋の悩みですか。いいですね」

 ちらとギリコを見て、シャルロはすぐ視線を逸らした。

「しかも、シャルロさんの想う相手は、ゴダールのサンヤット王家の王女様だ。なかなか難しいよ、シャルロさん」

 ぴくぴくっ、と明らかにシャルロの頬がひきつった。

 その様子を見ていたギリコは、運ばれてきた酒をぐいと呑んで満足そうに口角を上げた。

「しかし、シャルロさんも、ベリー家の人間ではある。王家の血を引いているシャルロさんは、ジン王女の婿になる資格は持っているんだよなぁ」

 シャルロは明らかにうろたえていた。

 たまにここで一緒に吞むだけのこの男に、そんな心の内を話した記憶はない。だが、何を話したのか記憶にない日も多い。

 そうか、俺は話したのか。ジン王女に好意を寄せているなんてことを、こんな男に話してしまったのか。だとしたら、自分はなんと軽率な、情けない男なのだろう。

「はは。何を言っているんだ、ギリコさん。俺はそんなこと思っていないし、そんな話をした覚えもない」

「してましたよ」

「いい加減にしてくれ。俺はそんなこと話してない」

「だから、してましたよ。ジン王女がどれほど美しいか、ジン王女とパラレをしているときにどれほど自分が幸せか、最近アレフォス島からやってきた少年がジン王女と親しくしているのを見て、自分は忙しくてジン王女とまともに会話もできないのにあの少年が邪魔でしょうがない、とか」

 シャルロが顔を伏せ、がっくりと肩を落とした。

 その様子を見ていたギリコが身を乗り出し、シャルロの顔に口を寄せて囁いた。

「シャルロさん。惚れ薬というのを知っていますか」

 少し間をおいて、シャルロが小さく笑った。

「何を言うかと思えば」

 ギリコは相変わらず軽薄な笑みを浮かべている。

「飲めば女が男に惚れるという薬か。そんなもの、この世にあるわけないだろう」

「医術に関わっているシャルロさんだ。そう思うのも無理はありませんね。しかし、あるものはあるんです」

 自信ありげな物言いに、思わずギリコの細い目を凝視してしまうシャルロ。

「本当に、そんなものがあるのか」

「あるんです」

「…ふん、やっぱり信じられないね」

 ギリコがぐっと口角を上げた。

「シャルロさんは知らないかもしれませんが、ルマン島の西部は良い源泉がいくつもある温泉地なんです。その湧きだす温泉には、ウーダという、硫黄を好む昆虫がいるんです。この虫は、敵に襲われそうになると、おしりから強烈な臭いのする汁を出します。人でも、目に入れば最悪の場合、失明する危険もある劇薬なんですが、この汁を煎じて乾燥させると良い頭痛薬になります。これに、アレフォス島で採れる薬草を加えると、なんと惚れ薬ができるんです。惚れ薬、というにはちょっと語弊があるかもしれませんね。飲んだ後、最初に会話した者の言葉に従順になってしまう、というのがこの薬の効能と言った方が正しいかもしれません」

「そんな薬、今まで診療所に持ってきたことはないじゃないか」

「ええ。今まで診療所にお持ちしたことはありません。なぜなら、この薬はちょっとした手違いから最近になって偶然生まれた薬でして、それに、ウーダから採れる汁はほんのわずかの量なので値が張ります。そもそもグラックス先生の診療所でこの薬を使うような状況はまずないと思いまして、今までお持ちしたことはないんです。こんな効能がある薬を求められたこともありませんから」

「そんな高価な薬の話を、なぜ俺にするんだ」

「私はあなたが好きだ。とてもいい青年だと思っています。そんな青年が淡い恋心に胸を痛めている。大人として応援したくなるのは当たり前じゃないですか」

 シャルロは顔を伏せ、何かぶつぶつと呟いている。

「え、何ですか、何をぶつぶつ言っているんです」

「俺が王女に好意を持っているとして、そんな薬の力を使って王女の心をものにして、良い訳がないだろう」

 ギリコは大きく頷きながら、にんまりと笑った。

「やはり、あなたは良い人だ。惚れ薬なんて、人を騙すようだ、と良心が咎めるのもわかります。だけど、その心配は無用です」

 え、とシャルロが顔を上げた。

「この薬の効果は一時的で、一、二時間もすれば消えてしまうのです。だが、心のどこかにその名残が刻まれます。男女の間なら、それは好感といってもいいでしょう。ですから、はじめは薬の力でジン王女を振り向かせ、あとはシャルロさんの頑張り次第なのです。薬を使いつづけることは依存性がありますのでお勧めしませんが、一回だけなら特に健康への影響はありませんのでご安心ください」

 黙ったまま考えを巡らせているように見えるシャルロの顔に近づいて、ギリコは「お見せしましょう」と笑いながら、小指の先ほどの小瓶を取りだした。中には透明な液体が入っている。

「これがその惚れ薬。ウーダから採った薬です」

 ギリコは小瓶をシャルロの前でちらつかせながら、カウンターの方に顎を振った。

「カウンターの隅に、女がひとり、座っていますね」

 見ればギリコの言うとおり、肩肘をついてグラスを傾けている女が、カウンターの一番奥にひとりで座っている。真っ直ぐに伸びる黒髪を腰まで垂らしているその女は、後ろ姿を見ただけでも豊満な体つきを連想させる容姿をしていた。

「あんな良い女、私など見向きもされない、とシャルロさんも思いますよね。私もそう思います。ですが、この薬を使ってあの女を落とせるかどうか。その結果を見たうえで、もしご入用なら、港にあるシナイ商会の支店に言伝(ことづて)しておいてください」

 女を見つづけているシャルロに、ギリコが笑いかけた。

「半信半疑、といった顔をしていますね。その顔が驚きに変わるのを想像するとワクワクしますよ」


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