覚醒
雪原に降りたジン王女もすぐに身を翻して、迫ってくる二頭のピールを視界に入れている。
背中に強烈な痛みが走ったあと、飛ばされて雪の中に突っ込んだライアンは、やっと雪から顔を出して何が起きたのかを理解しようとしている最中だ。
駆けてくる二頭のうちの一頭が、ジン王女の目の前でふわりと飛び、もう一頭は牙をむきだしながらそのまま突っ込んでくる。腰を落として間合いを見切ったジン王女は、体を横に捻りながら飛び上がり、体が回転する力を使って振り下ろした小刀が、直進してきたピールの脳天に突き刺さった。さらに、ピールの頭に深々とめり込んだその小刀を支えにして、ジン王女は右足を大きく蹴りあげる。王女の右足は、空中を飛んで上から襲いかかってきたピールの喉元をえぐった。
ぎゃんっ。ぎゃっ。
遅れて苦悶の声を出した二頭のピールが、それぞれ別の方向へ飛んでいった。頭に小刀を突き立てられた一頭は、ぶるぶると頭を振り、血しぶきをあげながら転がっていく。喉元を蹴り上げられたもう一頭は、雪の上に降りると、げふげふっ、と咳き込んで、そのまま走り去っていった。
首を回して、ちょうどその光景を見たライアンは、ピールに襲われるのを避けるためにジン王女が自分を蹴り飛ばしてくれたのだと、ようやく理解していた。
ライアンが見ているジン王女は、雪の上に膝から着地して、立ち上がろうとして雪に足をとられ、尻もちをついてしまったようだ。
そのとき、ライアンの視界の端に、動くものがあった。
それは、雪をかき分けて起き上がろうとするジン王女の背後に迫る、ピールの姿だった。
岩の上に居たやつだ。二頭のピールに気をとられて、岩の上のもう一頭のことに注意が回らなかったんだ。ジン王女はまだ気づいていない。危ないっ。
「ジンっ」
ライアンの頭の中は、真っ白になった。
何も考えられなかった訳ではない。
考えるよりも先に、ただ、足が前に出ていた。
あそこに。ジンのところに。速く。助けるんだ。と、それだけが頭にあった。
踏み出した右足が雪の上に降りる瞬間、ライアンの左腕から、青緑色の光が立ち昇っていく。青緑色の光は波のように一気にライアンの身体を包み込み、身体を前に押し出そうと力を入れはじめた左足のところで一層強く光を放った。と同時に、足元の雪が爆発したように周囲に飛び散る。
瞬きするほどの瞬間に、信じられない速さで駆けだしたライアンは、あっという間にジン王女との距離を詰め、ようやく立ち上がった彼女を抱き取って空へ飛び上がった。
飛び上がった先に、ジン王女を襲おうと、同じように跳躍していた岩場のピールがいた。ピールの正面に飛んだライアンは、ピールの眉間をめがけて蹴りを入れる。
ごぶっ、という鈍い音がして、蹴られたピールは恐ろしい速さで落下し、雪の上に叩きつけられて雪煙が舞い上がった。
蹴られたピールの目にライアンが映ったかどうかはわからない。ただ、一瞬の出来事に、何が起こったか分からないまま落ちていったことは間違いないだろう。
それはジン王女も同じだった。が、ライアンの腕の中で空高く舞い上がり、体中が青緑色の光に包まれている様を見て、やっと状況が飲みこめた。
「ライアン。ザレの力を使えたのね」
「うん」
「すごい」
青緑色に光る薄いベールに包まれた二人は、風に乗って、数多の星が瞬く夜空に向かってゆっくり登っていく。その光は、波打つように強くなったり弱くなったりを繰り返している。みるみるうちに雪原に倒れたピールが小さくなり、幻想的な静寂が辺りを満たしていった。
そしてなんだか暖かい、とジン王女は思った。真冬の空を飛んでいるのに、まったく寒さを感じない。
ザレの光が暖かいのかな。それとも、ライアンの温もりなのかな。
ジン王女は掴んでいるライアンの腕を、ぎゅっ、と握りしめた。
「あ、寒いよね」
ジン王女は首を横に小さく振り、「大丈夫」、と小さく言った。
「ねえ、どうやってザレの力を使えるようになったの」
見上げるジン王女をちらっと見たライアンは、「うーん」と唸った。
「うまく言えないけど、いままでは、ザレの力を感じようと意識しすぎていたのかもしれない」
「意識しすぎていた…」
「うん。意識しないで、強く思うというか…、なんて言ったらいいんだろう」
「なんか矛盾しているね」
「そう。そうなんだよね。この感じを言葉で言うのが難しい」
「んー、わからないけど、わかった。それから、ありがとう。助けてくれて」
「それは俺も同じだよ。ありがとう。でも、蹴る前に、『蹴るよ』って言ってほしかったな」
「あ、ごめん。言う暇がなくて」
ライアンの胸に、ジン王女はそっと顔を預けた。心地よい淡い光に覆われて、漆黒の空に煌めく星々の渦にこのまま吸い込まれていってしまいそうな、そんな不思議な感覚にジン王女は包まれていた。
「ねえ、ジン。このまま上の山小屋まで飛んでいこうと思うんだけど、こっちの方角でいいのかな」
「そうだった、イゲルを探さなきゃ」
はっと顔を上げたジン王女は、下を見て周りを見回し、「あれがミローブ山、てことは」と言いながら視線を下に戻して、「もっと右の方に行った先だと思う。そんなに遠くはないはず」
「わかった」
ライアンが応えた途端、二人はものすごい速さで落下しはじめた。「きゃっ」と叫んだジン王女の声を置き去りにして、雪原に向かってぐんぐん落ちていく。
雪の上に叩きつけられる。と、ジン王女が身を固くしたとき、ふわっ、と体が浮いた。一瞬の間をおいて、次にはもう、解き放たれた矢のように再び上昇していった。落ちた場所の雪原の雪が、ライアンが蹴りだしたせいでゆっくりと飛散していくのが眼下に見える。
二人はまた空に上がり、ゆるやかに弧を描きながら移動していった。
急降下と急上昇をしたことで、内臓が揺さぶられて少し気持ちが悪い。ライアンは平気なのかしら、とジン王女が思った途端、また落下をはじめた。
ジン王女が声にならない声をあげる。そんなことを繰り返すこと三回。空中を移動しながら、ライアンが「あっ」と声を上げた。
「小屋が見えた。あれ、灯りが点いてる」
泳ぐ目で小屋を探したジン王女が、「ほんとだ」と呟いた。
小屋を目指しながら降下して、すーっ、と流れるように着地すると、そのまま駆けだそうとしたジン王女は、バランスを崩して雪の上に倒れこんでしまった。
ライアンに支えられて起き上がったジン王女は、上の山小屋の扉を開けると同時に、「イゲルー」と叫びながら中に飛び込んで、絶句した。
小屋に入る二人を待ち構えていたのは、膝立ちで弓矢を番え、こちらを狙いすましている若者だった。
「クロウ」
ライアンの言葉に応じて息を吐いたクロウは、構えを解いて立ち上がった。
暖炉に火が入れられ、小屋の中は暖かい。
その暖炉の前で、毛布を掛けられた子どもが横たわっていた。気づいたジン王女が思わず駆け寄って、寝ている子どもを揺さぶった。
「イゲル、イゲル」
激しく揺さぶられた子どもは、思ったとおりイゲルだった。ぱちぱちとしながらようやく開けた目をこすりながら、イゲルはぼんやりとジン王女を見つめ返した。
「あれ、…ジン王女、どうしてここに」
「イゲルのことが心配で探していたのよ」
「ふうぅん」
「怪我はしていないの」
「逃げるときに転んで足を捻っちゃったけど、クロウに助けられて、手当もしてもらった。だから大丈夫」
「そう。よかった」
起き上がったイゲルはまだ目をぐりぐりとこすりながら、大きな欠伸をした。




