ピールの襲撃
石で頑丈に造られている山小屋の中は大きなひと部屋になっていて、扉の横に大きな壺と木箱がいくつかあるだけで人の気配は無かった。奥には暖炉があり、その横には薪が高く積まれているが、暖炉の中に灰は無く、ここ二、三日で使われたような形跡はみえなかった。
「イゲルはここには来なかったのかしら。それとも暖炉に火を入れずに過ごしたのか、もしくは、先を急いで夜の森を歩いて上の山小屋を目指したのかもしれない」
「どの可能性もあるね。でも、手前までは確かに子どもの足跡があったから、イゲルがここに来たことは間違いないと思うよ。俺たちも上の山小屋へ行ってみよう」
「そうね。でもその前に腹ごしらえをしましょ。ライアンは暖炉を点けて」
「わかった」
暖炉の薪に火が回ると、一気に周りが暖かくなった。
二人は背負袋から携行用の硬いパンを取り出すと、暖炉の前に座って黙々と食べた。曇りガラスの窓の向こうが濃い灰色になりつつある。陽が落ちてきたようだ。
軽い夕食を終えると、二人は小型のランタンに暖炉の火を移し、薪に水をかけて火が消えたのを確認してから山小屋を出た。
空には夕暮れの名残りが残っているが、辺りはもう暗くなっている。二人は歩きながら、「イゲルー」と声を張りあげるが、口から出た言葉のすべてが木々の間の暗がりに吸い込まれていくようだ。ジン王女が持つランタンの照らす先が頼りなげにゆらゆらと揺れている様子を見ているうちに、ライアンの胸に根拠のない不安が募ってきた。
イゲルはここを通っていないんじゃないのか。
昨日の夜、東の山小屋の中に誰かがいた形跡は無かったと言っていい。仮に山小屋に泊まらずに夜も歩くつもりだったとして、イゲルはちゃんと灯りの準備はしていたのだろうか。日中でさえ歩くと足をとられそうになるこの道を、真っ暗ななかで灯りも無しに行けるとは思えない。暗くて雪の上の足跡もよく分からないけど、ジン王女はイゲルの足跡をちゃんと見分けられているのだろうか。
上を見上げると、重なり合う葉の落ちた枝の隙間から、夜空に無数の星が瞬いているのが見える。
上の山小屋へ向かう雪道は、下ったかと思うとその倍の上り坂になり、二人は昼間より慎重に目印の赤い布が巻かれた木を確認しながら進んでいった。
ジン王女の話だと、上の山小屋まで、昼間であれば半日の行程だそうだ。だけど、暗闇をランタンの心もとない明かりで照らし、足元に注意して、道を逸れないように注意しながら進むのは、かなり時間がかかりそうだ。夜明けまでに上の山小屋に着けるかどうか。
それも、先行するイゲルが上の山小屋に泊まっていたら、の話だ。山小屋に泊まることも惜しんで、夜も山道を登って先に進んでいたとしたら、追いつくことは難しい。事故に遭う確率も高い。
答えの出ない疑問がぐるぐると頭の中を渦巻き、ジン王女に問いかけようとしては口をぎゅっと閉じる。イゲルの名を呼びつづけながら、そんなことをライアンは繰り返していた。
道が緩やかになり、少し開けた場所に出た。木々は少なくなり、凍てついた夜空から星々が降り注いでいるのが見える。
東の山小屋からは、もうだいぶ登ってきている。上の山小屋まで、三分の二くらいは進めただろうか。
「休憩しましょう」
ジン王女がそう言って倒木の上に腰かけようとしたそのとき、ぴん、と大気が張りつき、一瞬だけ時が止まったようにライアンは感じた。
殺気を持つ目で誰かが見ている気がする。
「ジン、何かに狙われてる」
小さく呟いたライアンを見上げ、ジン王女は一瞬不思議そうな顔をしたが、はっ、と目を見開いてすぐに状況を理解した。パラレの修行の高みを理解しつつある二人でなければ、このわずかな空気の流れに気づくことはできなかったろう。
二人は背負袋を静かに下に置き、腰に差していた小刀を抜くと、背中を合わせて身構え、辺りの様子をうかがった。
「これ、もしかしたら、ピールかも」
ジン王女が囁く。背中越しに王女の鼓動が伝わってくる。
「ピールって、どう猛な獣のことだろ」
「そう」
「囲まれてるんじゃないかな。何頭いるんだろう」
相変わらず、どこからか、こちらの様子を見ている。木の陰か、岩場の後ろか。
「おかしい」
「何が」
「ピールは夜も活動するけど、光が苦手で、ランタンほどの灯りでも、滅多に寄っては来ないはずなの。相当、気が立っているみたい」
「どうする」
ジン王女が何かを言いかけたとき、視線の先の大きな岩の上に、ふっ、と何かが身を現した。星明りに映るその獣の姿を見て、ライアンは思わず、ごくっ、と唾を飲み込んだ。
大きい。大人の人間の倍はありそうだ。
夜目にも全身がふさふさとした白い毛に覆われているのが分かる。そのせいで、余計に大きく見えるのかもしれない。胴体の真ん中から尾っぽにかけて、黒っぽい毛の縞模様がある。その先の長い尾は真っ黒だ。そして何より特徴的なのが、尖った耳の先から空に向かって伸びている白く長い毛で、それはまるで二本の角を生やしているかのように見える。
岩場に現れたピールは二人に視線を合わせたまま、じっと動かない。ピールの口元から吐き出される白い息が、風に乗って流れていった。
「ピールは群れで狩りをするの。気をつけて。あいつに気をとられすぎていると、違う方向から襲ってくるやつに対応できない」
「わかった」
姿を見せているピールは動かない。こちらの動きを待っているのか、それとも別のピールが間合いを詰めているのか。
「ランタンを持っているから襲ってこないのかな」
「…分からない」
依然として岩場のピールは動く気配がない。もうずいぶん長いこと、この睨みあいが続いているような気がしてくる。
「ライアンの言うとおり、あのピールはランタンの灯が怖いのかも」
「襲ってくる様子はないけど、立ち去る気配もないね」
ちらっと辺りを見回したジンが、短く息を吐いた。
「このままこうしていても、埒が明かない。距離的には上の山小屋の方が近いと思う。ランタンの灯をかざしながら、ちょっとずつ距離をとって行けば、逃げられるかもしれない」
「ああ。こっちが動くのを待っているような気もするけど、何もしないでいるよりましだ」
二人は呼吸を合わせ、ランタンをかざしながら足を一歩、横に踏み出した。
その瞬間、岩場にいたピールが、シャーッ、と鳴き声を発した。
と同時に、ジン王女の前方と斜め右、木立の奥から二頭のピールが駆けてくる姿を王女の目が捕らえた。
雪の上を、木立を避けながら、信じられない速さで向かってくる。ひと足で体の三倍は跳躍しているようにみえる。
背中を向けたライアンには、駆けてくるピールが見えていない。だが、空気を切り裂いて、何かが猛烈な勢いで近づいてくる気配を感じて、ライアンが振り向こうとしたその刹那、間近に迫った二頭のピールは宙を飛び、空の上で交差した。
二頭のピールの動きが読めずに不意を衝かれたジン王女は、咄嗟に軽く飛び上がり、折りたたんだ両足を思い切り伸ばして、ライアンの腰の辺りを蹴った。ライアンは前に吹っ飛び、ジン王女はライアンを蹴った反動を使って大きく前にジャンプした。
二人が居た場所に一頭のピールが、もう一頭はそこを飛び越えて着地したが、空振りに終わった勢いを殺せずに雪の上を滑っていく。ざざざーっ、と、前足を踏ん張ってようやく止まると、二頭のピールはすぐに体を反転させた。
ジンとライアンが居た場所には、放り投げられたランタンの油がこぼれて引火し、雪の上に二つの火柱が立っている。
二頭のピールはぶるぶるっと頭を振ると、前方に飛んで距離を開けたジン王女に狙いを定めて猛然と走りだした。




