裂氷草
「イゲルは漁師たちから何を聞いたんだろう」
イゲルがいなくなった直接の要因となった漁師の言葉が気になったライアンがそう問いかけると、マイトラが顔を伏せた。
「裂氷草、っていう、どんな病にも効く薬草があれば、奥様も助かるだろうに、って話していたらしいんだ」
「まさかっ」
大きな声をあげたのは、ジン王女だった。
「それで、もしかして、イゲルはその裂氷草を探しに行ったんじゃないでしょうね」
「わかんない。でも、話してくれた女中のおばさんは、イゲル坊ちゃんは思い詰めたら、すぐに、ぱっと行動しちゃうから、山へ裂氷草を探しに飛び出して行っちゃったんじゃないかしら、って言ってた」
「こんな時期にミローブ山に行ったら、凍えて死んじゃうわよ。それに…、あそこはピールが多く棲んでいるところなの。寒さで動けなくなったら、凍えるよりも先に、ピールに食べられちゃうかもしれない」
「ピールって、山に棲んでいる獣だろ」
ライアンの言葉に答えずに下を向いていたジン王女は、「私、助けに行ってくる」と言って立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
慌てて腕を掴んだライアンの手をジン王女は振りほどこうとした。
「イゲルは、まだ小さいから、知らないのよ。あんな話を信じて、本当に裂氷草を探しに行くなんて…、馬鹿だよ」
「え、それどういうことだよ」
「何でもない」
「何でもないってことないだろ。嘘の話を信じて、イゲルはその草を採りに行ったのか」
「いいから、離して」
掴んでいるライアンの手を払ったジン王女の横に、スラックがすっと立った。
「ジン様。その話、お聞かせください。我々にも、何か手伝えることがあるかもしれません」
スラックをちらっと見たジン王女は、その後ろにいたマイトラに視線を移し、顔を伏せて大きく溜め息をついた。
「裂氷草があれば助かるかもしれない、と漁師の人が話していたのは…、反対に、もう助からないだろう、っていう意味の隠語なのです」
「…どういうことなのか、話してもらえませんか」
「それは、今から何百年も前のお話で、今ではもう、おとぎ話に近い話です」
ジン王女は三人に向きなおった。
「海の王であるボッサムを退治したワナロア女王が亡くなってから、百年以上経った頃のことです。
ときの女王には、マーサという女王が即位していました。
マーサ女王には、物の本質を見極める能力があったといわれています。
彼女の代にアグーの周りに結晶の水滴が滴りはじめ、それがやがてアグーの涙になります。アグーの涙に癒しの効力があることを見抜いたのもマーサ女王ですが、これはそのアグーの涙ができる前のこと。年の離れたマーサの妹が、原因不明の病に罹ってしまったのです。
結婚して十年経ってもマーサ女王は子に恵まれず、まだ幼い妹を、マーサ女王は我が子のように可愛がっていました。このままマーサ女王に子が、それも女の子が生まれなければ、この妹が次の女王になるはず。皇位継承権のあるマーサの妹は、王家としても大切に育てていました。
その妹が、何日も高熱が出て、食べ物も受け付けないので痩せ細ってしまい、意識も混濁するようになってしまったのです。ちょうど、イゲルのお母さんと似たような症状になっていたのでしょうか。必死で看病していたマーサ女王を含め、周りの者の誰もがもう助からないと思いはじめていました。
そんなとき、マーサ女王にはあるイメージが、何度も頭に浮かんでくるようになりました。
ミローブ山という、王宮の真北にある、ゴダール島で最も標高が高く険しい山で、頂上付近は夏でも溶けない氷に覆われている山があります。そのミローブ山の頂に、氷を割って力強く芽を出して風に揺れている草のイメージが、昼夜を問わず、マーサ女王の脳裏に現れるのです。
マーサ女王は確信しました。
アグーが、その氷を裂いて芽を出す草を私に示してくれている。その草があれば、妹は助かるのかもしれない。
マーサ女王はミローブ山にその草を求めに行くことにしました。
ミローブ山は女神セリーンがゴダール島に最初に降りたった場所だという言い伝えがあり、サンヤット王家の信仰の対象でもあります。なので、山頂へ向かう登山道はあるのですが、季節は今と同じ、真冬の時期。何もかもが雪と氷におおわれるこの季節に、ミローブ山に登ろうとする者はいません。登山道も雪に埋もれているはずです。
厳冬期の山登りはただでさえ危険なうえに、女王には氷を突き破って芽を出す草のイメージがあるだけで、その正確な場所も分からない。
周りの者は女王を止めましたが、彼女はアグーが埋め込まれた三叉の鉾を手に、山に向かいました。足手まといになるからと、供の者を連れずに、たった一人で。
マーサ女王は信じていたのです。アグーが自分を必ず守ってくれる。そして、草の場所に導いてくれると。
ミローブ山の山頂までの道のりは、険しいものでした。でも、マーサ女王の身に危険が及びそうになるたびに、本当にアグーが助けてくれたのです。
足を踏み外して大きな雪の割れ目に落ちそうになった時には、突如飛び出た氷の塊が足場になって難を逃れました。吹き荒れる風と雪で周りが真っ白になり、道に迷ってしまったときは、鉾が指し示す先に見つけた洞窟で吹雪をやり過ごしました。ピールの群れに囲まれたときは、小さな氷の粒が女王の身体を覆って気配を消してくれたおかげで襲われずにすみました。
二日をかけて、ようやくミローブ山の頂上付近にたどり着き、目指す場所だと確信する頂が見えてきました。でも、マーサ女王の目の前には、氷に覆われた断崖絶壁が立ちふさがっていました。目的の草を採るには、前へ進むしかない。しかし、女王でも垂直の崖をよじ登ることはできない。マーサ女王は、アグーを手に祈りました。
すると、女王の足元の雪がみるみる盛り上がり、彼女を上へ上へと押し上げていきました。雪の動きが止まると、目の前に、本当に氷の割れ目から顔を出す草がありました。
その草の葉は尖った形をしていて、周りがギザギザと波打ち、しかも葉には色が無く透明で、紫色の葉脈が透けて見えていたそうです。
女王はその草、裂氷草を持ち帰り、煎じて妹に飲ませると、妹は無事に回復しました。その妹が、マーサの後、のちのリブ女王です。
どんな病も治す草、裂氷草。その草を求めて、何人もの人がミローブ山に登りました。特にベリー家は医術を家業としているので、熱心に探したそうです。
しかし、その後、裂氷草を見つけた者はいません。
時が経ち、この話はマーサ女王とアグーの結びつきを示すおとぎ話だったのではないか、と思われるようになりました。いくら探しても見つからない裂氷草など存在しない。万病に効く草など、あるわけがない。そこから、『裂氷草があれば助かったのに』、という言葉は、もう助からない、という意味を遠回しに言う時に使われるようになったのだそうです」
「なるほど。その意味合いを知らずに話を聞いたイゲルは、それを信じて万病に効く草を求め、ミローブ山に登った、と王女は考えているんですね」
スラックの言葉に、ジン王女はゆっくりと頷いた。
「確証はありません。ですが、私は、雪山の細い道を必死に登っていくイゲルの姿をはっきりと感じるんです」
「でも、ジン王女が行くのは危険すぎる。行くなら、誰か別の人と俺が行くよ」
「ライアンは道を知らないでしょ。捜索に出て遭難するんじゃ、意味がないじゃないの。それに今日から三日間、海軍との合同演習で、女王も、ピガンダ達も、誰もいない。捜索に出られる人がいない状況だから、私が行くしかないの」
「だめです」
背後からの強い声に皆が振り返ると、そこに立っていたのはカイラだった。




