第8話:同じ瞳の向く先
第8話:同じ瞳の向く先
エレナの手紙が無事に騎士へ届き、推薦状を受けた彼が遠征の準備を始めてから、城の空気は少しずつ変わっていた。
エレナは騎士の出立を見送るため、短い時間だけ会うことを許された。二人は温室で言葉を交わし、別れ際には、今度こそ指先をそっと重ねたという。
ミリアはその話を聞いて、心から嬉しく思った。作戦は、ひとまず成功だ。
けれど、ここ数日は届け物やアルヴィンの手伝いで城中を駆け回っていたせいか、ミリアの体には疲れがたまっていた。夕方、執務室の扉が閉まるころには、もう目を開けているのもつらい。
「頑張りすぎたな、ミリア」
アルヴィンは彼女を抱き上げ、膝の上に乗せた。ミリアは彼の腕に身を預ける。あたたかな体温と、書斎に満ちた静けさに包まれているうち、意識がゆっくり遠のいていった。
そのまま、ミリアは眠ってしまった。
夜が深まるころ、彼女は夢の中で誰かに名前を呼ばれた気がして、かすかに目を開けた。
アルヴィンがすぐそばにいる。彼はミリアを起こさないよう、白灰色の毛並みを指先でそっと撫でていた。指が耳の後ろを通り、頬へと滑る。その手つきは、いつもより慎重で、どこか寂しそうだった。
「君の瞳を見ていると、言葉が通じなくても、心は届いている気がする」
アルヴィンは、眠ったままのミリアに語りかける。
「不思議だな。君がそばにいると、どんなに忙しい日でも気持ちが落ち着く。君の仕草ひとつで、笑ってしまうこともある」
彼の指が、ミリアの額を優しく撫でた。
「もし君が人間だったら……」
そこで、アルヴィンの声が途切れた。
ミリアは寝たふりを続けることができなかった。目を開き、彼を見上げる。
アルヴィンは少し驚いたように瞬きをしたが、すぐに困ったような笑みを浮かべた。
「起こしてしまったか。ごめん」
彼はそう言って、ミリアの頭をもう一度撫でた。けれど、その眼差しはいつもの穏やかなものとは違っていた。言葉にできない何かを、心の奥に押し込めているような目。
ミリアは、その目を知っている。
温室でエレナが騎士を見つめていたときの眼差しだ。相手を想う気持ちがあふれているのに、簡単には届かないと知っている人の目。切なくて、まっすぐで、相手の一挙一動から目を離せない目。
そしてミリア自身も、同じ目でアルヴィンを見つめている。
そのことは、もう気づいていたはずだった。肉球を彼の手に重ねたあのとき、胸の高鳴りに名前をつけたはずだった。それでも、ミリアはどこかで目をそらしていた。彼が好きだと認めれば、叶わないことまで一緒に認めなければならない気がしたから。
アルヴィンは人間で、ミリアは猫。彼の隣には、やがて人間の伴侶が立つのかもしれない。
それでも、彼の優しさに触れるたび、名前を呼ばれるたび、ミリアの心は彼のほうへ向かってしまう。
私は、王子様が好きなんだ。
思いをあらためて胸に刻んだ瞬間、ミリアの心は喜びと悲しみでいっぱいになった。好きな人が目の前にいる。けれど、その気持ちを言葉にする声を、彼女は持っていない。
ミリアは前足を伸ばし、アルヴィンの手にそっと触れた。
「どうした?」
彼は尋ねたが、答えは返ってこない。ミリアは彼の指に頬を寄せ、喉を鳴らした。
アルヴィンはそれを受け止めるように、彼女を胸元へ抱き寄せた。
「ありがとう。君がいてくれてよかった」
その言葉が嬉しくて、ミリアは彼の服に顔をうずめた。
伝えられない想いを抱いたまま、彼の温もりに身を任せる。アルヴィンはミリアの背を撫で続け、彼女はもう一度、ゆっくり目を閉じた。
同じ瞳が、同じ人へ向いている。
それだけが確かな夜だった。




