第7話:ふにふに肉球
第7話:ふにふに肉球
エレナと近衛騎士を応援する作戦が始まってから、ミリアは城の中を歩き回ることが増えた。
手紙を届けたり、アルヴィンの書斎で彼の仕事を見守ったり。小さな体であちこち動き回ったせいか、その日は昼を過ぎるころには、もうまぶたが重くなっていた。
執務室の窓辺に置かれたクッションに、ミリアは丸くなる。白灰色の長い毛がふわりと広がり、前足が胸元から少しだけのぞいていた。
アルヴィンは書類を読みながら、時折そちらへ目を向ける。
「よく働いてくれたからな。今日はゆっくり休むといい」
ミリアは目を閉じたまま、しっぽの先だけを揺らした。聞こえている。けれど、返事をする元気はなかった。
やがて、アルヴィンが机から立ち上がる気配がした。彼はクッションのそばに腰を下ろし、ミリアの寝顔をのぞき込む。
「起こしてしまったかな?」
ミリアは答えず、前足をきゅっと丸めた。
ふわふわの毛の隙間から、淡い桜色の肉球がのぞいている。アルヴィンはそれに気づくと、思わず頬を緩めた。
「こんなところに、かわいらしいものが隠れていたんだな」
そっと指先を近づける。ミリアの耳がぴくりと動いた。
「触ってもいいかい?」
返事はない。アルヴィンはためらいながら、肉球の端を指でそっと撫でた。
ふに、と柔らかい感触が伝わる。
ミリアの前足が、すばやく引っ込んだ。
「あっ、ごめん。くすぐったかったかな」
ミリアは薄く目を開け、アルヴィンをじっと見た。触られたところをもう片方の前足で隠し、知らないふりをする。
「隠されると、ますます気になるな」
アルヴィンの声には笑いが混じっていた。ミリアはむっとしたように、ぷいと顔を背ける。
「わかったよ。もう触らない」
そう言って、彼は引っ込めた手でミリアの頭を撫でた。耳の後ろを優しくかかれると、ミリアの目はまた閉じていく。肉球を触られるのは少しくすぐったい。でも、アルヴィンの手は気持ちがいい。
彼女は抵抗するのをやめ、クッションの上で体を伸ばした。すると、隠していた前足がふたたび毛並みからのぞく。
アルヴィンは、今度は触れずにその小さな手を見つめていた。
「君は不思議だな。言葉は話せないのに、僕の言うことをよくわかっている」
ミリアは片目を開けた。
「エレナ嬢のことも、僕が悩んでいることも、まるで全部知っているみたいだ」
アルヴィンは、ミリアの頭を撫でる手を止めた。窓から差す午後の光が、彼の横顔をやわらかく照らしている。
「君の瞳を見ていると、ただの猫だとは思えないことがあるんだ」
ミリアの胸が、静かに波打った。
アルヴィンは困ったように笑い、彼女の耳元へ囁く。
「君がもし人間だったら、僕はきっと……」
そこで彼は言葉を止めた。続きを口にすることはせず、ミリアの頭をもう一度撫でる。
「いや、何でもない。ゆっくりおやすみ」
ミリアは目を閉じた。けれど、眠気はすっかり消えていた。
もし君が人間だったら。
その言葉が、心の中で何度も繰り返される。アルヴィンの声は優しく、けれどどこか切なかった。彼が見つめていたのは、白灰色の毛並みでも、小さな肉球でもなく、その奥にいる自分だったのだろうか。
ふいに、温室で見たエレナの表情が浮かんだ。近衛騎士を想う彼女の、苦しくて、まっすぐな眼差し。彼女が彼を見つめる目と、ミリアがアルヴィンを見つめる目。
同じだ。
そのことに気づいた瞬間、ミリアの心臓が大きく跳ねた。
膝に乗せてもらうと嬉しい。名前を呼ばれると胸が温かくなる。彼が別の誰かと笑い合うと、悲しくて仕方がない。
それは、猫が飼い主に懐いているだけではなかった。
私は、アルヴィンが好きなんだ。
自分の気持ちに名前がつくと、胸の中がいっそう熱くなった。嬉しいのに、苦しい。伝えたいのに、伝えられない。
ミリアは、丸めていた前足をそっと伸ばす。淡い桜色の肉球が、アルヴィンの手の甲に触れた。
アルヴィンは驚いて彼女を見た。
「もう、触ってもいいのかい?」
ミリアは返事の代わりに、彼の指へ前足を重ねた。
アルヴィンは微笑み、今度は肉球を押さずに、その小さな手を包み込んだ。
ふにふにと柔らかな前足の下で、ミリアの胸は、今までにないほど速く鳴っていた。




