第5話:一人と一匹の作戦会議
第5話:一人と一匹の作戦会議
翌日の午後、エレナはひとりで温室を訪れていた。
野ばらのアーチの下に立ち、花びらを見つめていた彼女は、近づいてきたミリアに気づくと、そっとしゃがみ込んだ。
「こんにちは、ミリア。昨日はありがとう」
ミリアはエレナの手に鼻先を寄せた。温室で泣いていたことを、彼女は恥ずかしく思っているのかもしれない。それでも、ミリアを見る目は優しかった。
「殿下には、まだ何もお話しできていないの。政略結婚を望んでいないことも……あの人のことも」
エレナは胸元から、折りたたまれた便箋を取り出した。何度も書き直したのだろう、紙の端には小さな折り目がついている。
「アルヴィン殿下に、私の気持ちをお伝えしたいのだけれど、面と向かうとうまく言葉にできそうになくて」
彼女は一度ためらい、それからミリアの首元に、小さなリボンで便箋を結んだ。
「あなたからなら、受け取っていただける気がするわ。殿下に届けてくれる?」
ミリアはリボンの重みを感じながら、エレナの顔を見上げた。
「ありがとう。あなたを頼りにしているわ」
もちろん、とミリアは喉を鳴らした。エレナは微笑み、便箋が落ちないようにリボンを整える。ミリアは温室を出ると、アルヴィンの書斎へ向かった。
その夜、書斎には暖炉の火が揺れていた。
アルヴィンは机に向かい、届いた報告書を読んでいる。窓の外では夜風が木々を揺らし、ときおり枝がガラスをかすめた。
「この街道の修繕には、追加の予算が必要か……」
アルヴィンは書類に目を落としたまま、長い息を吐く。ミリアは机の脇の椅子から、彼の様子をうかがっていた。眉間には深いしわが寄り、指先でこめかみを押さえている。
ミリアは椅子から机へ飛び乗った。
「おっと。どうしたんだい?」
彼女は書類の山を避けて机の中央を歩き、リボンで結ばれた便箋をアルヴィンの前に置いた。彼はそれを見て、目を瞬かせる。
「これは……エレナ嬢から?」
ミリアは短く鳴いた。アルヴィンはリボンをほどき、便箋を広げた。
そこには、エレナの丁寧な字で、短い言葉が綴られていた。
『殿下にお伝えしたいことがございます。政略のために結ばれる婚約が、互いの幸せにつながるとは限りません。どうか、一度お話を聞いていただけませんか』
アルヴィンは読み終えてから、しばらく黙っていた。
「彼女も、望んでこの婚約を受けたわけではないんだな」
ミリアは彼の手元に寄り、便箋の端に前足を乗せる。
「僕も気づいていた。エレナ嬢はいつも笑顔でいるけれど、あの笑顔が本心とは限らない。彼女を政略のために縛りたくないんだ」
アルヴィンは便箋を丁寧にたたんだ。だが、そのまま机に置いて考え込んでしまう。
ミリアはもう一度、彼の手に前足をかけた。
「……そうだな。まずは、きちんと話をしよう。彼女の望みを聞いて、僕にできることを考える」
その言葉に、ミリアはほっとして喉を鳴らした。
アルヴィンがペンを取る。ところが、袖口がインク壺に触れた。黒い壺がぐらりと傾き、便箋へ倒れかける。
ミリアは慌てて前足で壺を押し戻した。インクは机に一滴こぼれただけで止まった。
「危ない!」
アルヴィンが壺を起こし、便箋を持ち上げる。ミリアは、何事もなかったかのように座り直した。
アルヴィンはミリアと便箋を見比べ、困ったように笑った。
「君は本当に、人の言葉がわかるみたいだな」
ミリアは澄ました顔で、彼の膝に飛び乗った。答える代わりに、満足そうに喉を鳴らす。
「わかったよ。君も一緒に考えてくれるんだな」
アルヴィンはミリアの背を撫でながら、エレナへの返事を書き始めた。婚約のことを、彼女の意思を確かめずに決めたくはない。まずは話し合いの場をつくり、彼女の気持ちを聞こう。騎士との関係についても、何か力になれる方法があるかもしれない。
ミリアは机の端に座り、ペンが転がらないよう見張った。アルヴィンが考え込むと、前足でそっと袖をつつく。彼が笑えば、ミリアも目を細めた。
書斎の窓の外では、夜が深まっていく。
エレナの想いをどうすれば守れるのか。アルヴィンは紙に考えを書き出し、ミリアはそのそばで、ひとつひとつ見守った。
こうして、一人と一匹の作戦会議が始まった。




