第4話:温室の野ばら
第4話:温室の野ばら
エレナが城を訪れた日から、ミリアの胸には小さな痛みが残っていた。
アルヴィンのそばにいると、少しだけ忘れられる。けれど、彼とエレナが並んでいるところを思い出すと、痛みはまた戻ってきた。
その日の午後、ミリアは侍女たちの目を盗んで廊下へ出た。アルヴィンは執務中で、部屋の中には難しい顔をした大臣が何人もいる。膝の上に乗せてもらう隙がなさそうだったので、ミリアはひとりで城の中を歩くことにした。
廊下の奥から、甘い花の香りが漂ってくる。
誘われるように進んでいくと、半開きの扉に行き当たった。向こうから差し込む陽光が、床に細長い帯をつくっている。
扉を押し開けた途端、湿った土と花の香りがミリアを包んだ。そこは、ガラス屋根の温室だった。色とりどりの花が並ぶ中、白い野ばらが絡まるアーチのそばに、エレナがひとりで立っている。
ミリアは声をかけようとして、思いとどまった。
エレナは、野ばらの枝を胸元に抱きしめていた。棘が指先に触れているのも気づかないように、うつむいている。肩が小さく震えた。
頬を伝う雫が、手の甲に落ちる。
あんなに穏やかな笑顔を浮かべていた彼女が、今はひとりで泣いている。ミリアは、温室の鉢植えの陰に身を潜めた。
「……殿下は、きっと良い方です」
エレナがぽつりとつぶやく。
「優しくて、誠実で。あの方となら、きっと穏やかな暮らしができるでしょう」
彼女は野ばらの花びらを指でなぞった。
「それでも、私は……」
声がかすれ、続きを言えなくなる。エレナは目を伏せたまま、赤くなった指先を握りしめた。
そのとき、温室の入口で足音がした。
「エレナ様」
近衛騎士が入ってくる。鎧は身につけておらず、城の警備を終えてそのまま来たようだった。エレナは慌てて涙をぬぐい、背筋を伸ばす。
「ここへ来てはいけないと、言ったでしょう」
「申し訳ありません。ですが、どうしてもお伝えしたいことがありました」
騎士は言葉を選ぶように、一度視線を落とした。
「殿下との婚約が決まったと聞きました」
「ええ。私の家にとっても、王家にとっても大切な縁談です」
「では、私からは何も申し上げるべきではありませんね」
彼は一礼して踵を返そうとした。
「待って」
エレナの声に、騎士の足が止まる。
彼女は野ばらから手を離し、騎士に向き直った。
「あなたに何も言わずに、このまま嫁ぐことはできません。私は……あなたを愛しています」
静かな温室に、その言葉が落ちた。
騎士は、すぐには答えなかった。拳を強く握りしめ、それから苦しげに首を振る。
「私も、あなたをお慕いしています。ですが、私はただの近衛騎士です。公爵家の令嬢であるあなたを、私のような者が幸せにできるとは思えません」
「私が望んでいるのは、公爵家の名にふさわしい結婚ではありません」
エレナは、騎士の目をまっすぐに見つめた。
「王妃の座が欲しいわけでもない。ただ、あなたの隣にいたいのです」
騎士の表情が揺れた。彼は一歩だけ近づき、伸ばしかけた手を途中で止めた。二人の指先は、あと少しで触れ合う。それでも、彼は手を引いてしまう。
「身分の差があるかぎり、あなたを苦しめることになります」
「もう、苦しんでいます」
エレナの声が震える。騎士は目を閉じた。
ミリアは、鉢植えの陰でふたりを見つめていた。エレナの声は、胸に刺さるほど切なかった。アルヴィンに婚約者ができたと知った夜、自分の胸にも同じような痛みがあった。大切な人のそばにいたいのに、その願いを口にできない痛み。
ミリアには、二人の気持ちを消すことも、身分の差をなくすこともできない。それでも、二人が想い合っていると知った今、何もせずに見ていることはできなかった。
やがて騎士は、エレナに深く頭を下げた。
「今はまだ、あなたの願いに応えることができません。けれど、いつか胸を張ってあなたの隣に立てるよう、力を尽くします」
エレナは涙をぬぐい、かすかに微笑んだ。
「その言葉を、信じてもいいのですか?」
「はい。必ず」
二人は手を取り合わなかった。けれど、別れ際、騎士がエレナへ向けた眼差しには、押し隠しきれない想いが宿っていた。
騎士が温室を去ると、エレナは野ばらのそばに立ったまま、しばらく目を閉じていた。それから小さく息を吐き、涙のあとを手袋で拭う。
ミリアは鉢植えの陰からそっと出た。エレナは足音に気づき、少し驚いたあと、いつもの優しい顔を見せた。
「ミリア。見ていたのね」
ミリアは彼女の足元に寄り、ドレスに頬をすり寄せた。
「ありがとう。あなたには、隠しごとができないみたい」
エレナはミリアを抱き上げ、白灰色の毛並みに頬を寄せる。彼女の声には、まだ涙の名残があった。
「私の願いは、叶うのかしら」
ミリアは答えられない。ただ、エレナの腕の中で、力いっぱい喉を鳴らした。
温室を出たあと、ミリアは廊下を歩きながら、決意を固めた。
エレナの恋を、少しでも後押ししよう。
そうすれば、彼女は笑顔になれる。胸の痛みを抱えたままでも、想いを大切にする道が見つかるかもしれない。
そして、いつか自分も――。
そこまで考えて、ミリアは足を止めた。自分が誰のことを思い浮かべたのか、まだ確かめる勇気はなかった。




