↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/14

第4話:温室の野ばら

第4話:温室の野ばら


 エレナが城を訪れた日から、ミリアの胸には小さな痛みが残っていた。


 アルヴィンのそばにいると、少しだけ忘れられる。けれど、彼とエレナが並んでいるところを思い出すと、痛みはまた戻ってきた。


 その日の午後、ミリアは侍女たちの目を盗んで廊下へ出た。アルヴィンは執務中で、部屋の中には難しい顔をした大臣が何人もいる。膝の上に乗せてもらう隙がなさそうだったので、ミリアはひとりで城の中を歩くことにした。


 廊下の奥から、甘い花の香りが漂ってくる。


 誘われるように進んでいくと、半開きの扉に行き当たった。向こうから差し込む陽光が、床に細長い帯をつくっている。


 扉を押し開けた途端、湿った土と花の香りがミリアを包んだ。そこは、ガラス屋根の温室だった。色とりどりの花が並ぶ中、白い野ばらが絡まるアーチのそばに、エレナがひとりで立っている。


 ミリアは声をかけようとして、思いとどまった。


 エレナは、野ばらの枝を胸元に抱きしめていた。棘が指先に触れているのも気づかないように、うつむいている。肩が小さく震えた。


 頬を伝う雫が、手の甲に落ちる。


 あんなに穏やかな笑顔を浮かべていた彼女が、今はひとりで泣いている。ミリアは、温室の鉢植えの陰に身を潜めた。


「……殿下は、きっと良い方です」


 エレナがぽつりとつぶやく。


「優しくて、誠実で。あの方となら、きっと穏やかな暮らしができるでしょう」


 彼女は野ばらの花びらを指でなぞった。


「それでも、私は……」


 声がかすれ、続きを言えなくなる。エレナは目を伏せたまま、赤くなった指先を握りしめた。


 そのとき、温室の入口で足音がした。


「エレナ様」


 近衛騎士が入ってくる。鎧は身につけておらず、城の警備を終えてそのまま来たようだった。エレナは慌てて涙をぬぐい、背筋を伸ばす。


「ここへ来てはいけないと、言ったでしょう」


「申し訳ありません。ですが、どうしてもお伝えしたいことがありました」


 騎士は言葉を選ぶように、一度視線を落とした。


「殿下との婚約が決まったと聞きました」


「ええ。私の家にとっても、王家にとっても大切な縁談です」


「では、私からは何も申し上げるべきではありませんね」


 彼は一礼して踵を返そうとした。


「待って」


 エレナの声に、騎士の足が止まる。


 彼女は野ばらから手を離し、騎士に向き直った。


「あなたに何も言わずに、このまま嫁ぐことはできません。私は……あなたを愛しています」


 静かな温室に、その言葉が落ちた。


 騎士は、すぐには答えなかった。拳を強く握りしめ、それから苦しげに首を振る。


「私も、あなたをお慕いしています。ですが、私はただの近衛騎士です。公爵家の令嬢であるあなたを、私のような者が幸せにできるとは思えません」


「私が望んでいるのは、公爵家の名にふさわしい結婚ではありません」


 エレナは、騎士の目をまっすぐに見つめた。


「王妃の座が欲しいわけでもない。ただ、あなたの隣にいたいのです」


 騎士の表情が揺れた。彼は一歩だけ近づき、伸ばしかけた手を途中で止めた。二人の指先は、あと少しで触れ合う。それでも、彼は手を引いてしまう。


「身分の差があるかぎり、あなたを苦しめることになります」


「もう、苦しんでいます」


 エレナの声が震える。騎士は目を閉じた。


 ミリアは、鉢植えの陰でふたりを見つめていた。エレナの声は、胸に刺さるほど切なかった。アルヴィンに婚約者ができたと知った夜、自分の胸にも同じような痛みがあった。大切な人のそばにいたいのに、その願いを口にできない痛み。


 ミリアには、二人の気持ちを消すことも、身分の差をなくすこともできない。それでも、二人が想い合っていると知った今、何もせずに見ていることはできなかった。


 やがて騎士は、エレナに深く頭を下げた。


「今はまだ、あなたの願いに応えることができません。けれど、いつか胸を張ってあなたの隣に立てるよう、力を尽くします」


 エレナは涙をぬぐい、かすかに微笑んだ。


「その言葉を、信じてもいいのですか?」


「はい。必ず」


 二人は手を取り合わなかった。けれど、別れ際、騎士がエレナへ向けた眼差しには、押し隠しきれない想いが宿っていた。


 騎士が温室を去ると、エレナは野ばらのそばに立ったまま、しばらく目を閉じていた。それから小さく息を吐き、涙のあとを手袋で拭う。


 ミリアは鉢植えの陰からそっと出た。エレナは足音に気づき、少し驚いたあと、いつもの優しい顔を見せた。


「ミリア。見ていたのね」


 ミリアは彼女の足元に寄り、ドレスに頬をすり寄せた。


「ありがとう。あなたには、隠しごとができないみたい」


 エレナはミリアを抱き上げ、白灰色の毛並みに頬を寄せる。彼女の声には、まだ涙の名残があった。


「私の願いは、叶うのかしら」


 ミリアは答えられない。ただ、エレナの腕の中で、力いっぱい喉を鳴らした。


 温室を出たあと、ミリアは廊下を歩きながら、決意を固めた。


 エレナの恋を、少しでも後押ししよう。


 そうすれば、彼女は笑顔になれる。胸の痛みを抱えたままでも、想いを大切にする道が見つかるかもしれない。


 そして、いつか自分も――。


 そこまで考えて、ミリアは足を止めた。自分が誰のことを思い浮かべたのか、まだ確かめる勇気はなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。