第3話:笑顔の婚約者
第3話:笑顔の婚約者
エレナが城を訪れる日、朝から廊下はいつもより慌ただしかった。
侍女たちは客間に花を飾り、侍従たちは磨き上げた銀器を何度も確かめる。アルヴィンも正装に着替え、鏡の前で袖口を整えていた。
ミリアは寝室の窓辺から、その様子をじっと見ていた。
「そんなに見つめても、今日は君のための面会ではないよ」
アルヴィンが笑って、ミリアの頭を撫でる。
わかっている。今日は、婚約者となったエレナが挨拶に来る日だ。ミリアは小さく喉を鳴らしたが、胸の奥には、昨日から消えない重みが沈んでいた。
やがて、城門から馬車の到着を告げる声が聞こえた。
アルヴィンはミリアを腕に抱いて客間へ向かう。広間には両家の使者や侍従が集まり、窓から差す光が磨かれた床に広がっていた。
扉が開き、エレナが姿を現す。
淡い青のドレスに身を包んだ彼女は、背筋を伸ばし、落ち着いた足取りで進んできた。金色の髪はきれいに結い上げられ、胸元には小さな真珠の飾りが光っている。誰に対しても柔らかく微笑むその姿は、まるで絵画から抜け出してきたようだった。
「お会いできて光栄です、アルヴィン殿下」
「こちらこそ。ようこそお越しくださいました、エレナ嬢」
二人は互いに礼を交わした。アルヴィンの表情は穏やかで、エレナも礼儀正しい笑顔を浮かべている。
それは、誰が見ても申し分のない婚約者同士だった。
エレナの目が、アルヴィンの腕の中のミリアに留まる。
「まあ、とてもかわいらしい猫ですね」
「ミリアです。雨の日に庭園で見つけて、それから一緒に暮らしています」
アルヴィンがそう紹介すると、エレナはミリアの目線に合わせるように少しかがんだ。
「こんにちは、ミリア。あなたが殿下の大切な子なのね」
エレナの手が、ゆっくりと差し出される。ミリアは一瞬ためらったが、彼女の笑顔には押しつけがましさがなかった。そっと鼻先を近づけると、エレナは指先でミリアの頭を撫でた。
「きれいな瞳。澄んだ青色ね」
その手は優しかった。ミリアは、エレナを嫌いになりたくてもなれないと思った。
挨拶が終わると、二人は広間の窓辺で話を始めた。エレナは王都の花市場のことを尋ね、アルヴィンは最近の庭園の様子を話す。ときおり交わされる笑い声に、周囲の者たちもほっとしたような表情を見せていた。
アルヴィンが何かを話すと、エレナが目を細めて微笑む。エレナの言葉に、アルヴィンも楽しそうに笑う。
二人が並んでいる姿は、よく似合っていた。
ミリアはアルヴィンの腕から降ろされ、広間の隅に敷かれたクッションの上に座っていた。誰も彼女を忘れたわけではない。アルヴィンは時折こちらに目を向け、エレナも通りがかるたびに優しく声をかけてくれる。
それでも、二人の笑顔を見るたびに、ミリアの胸はきゅっと縮んだ。
アルヴィンには、あのような人がふさわしい。
美しくて、優しくて、同じ人間として言葉を交わせる人。王子の隣に立ち、共に未来を歩いていける人。
自分は、ただの猫なのだから。
そう言い聞かせるたび、胸の重みが少しずつ大きくなる。ミリアはクッションの端に前足をそろえ、二人から目をそらした。
その日の午後、エレナが帰ると、アルヴィンはミリアを抱き上げた。
「どうだった? エレナ嬢は優しい人だっただろう」
ミリアは彼の胸元に顔を埋めた。返事の代わりに、喉を鳴らすこともできなかった。
「疲れてしまったかな。今日はゆっくり休もう」
アルヴィンはミリアを部屋まで連れていき、いつものように寝床へ下ろした。けれど、ミリアは眠れなかった。
夜が深まると、ミリアはそっと籠を抜け出した。扉の隙間をくぐり、静かな廊下を歩いていく。猫の小さな足音は、誰にも気づかれなかった。
たどり着いたのは、広間に面したバルコニーだった。
扉の向こうには、月明かりに照らされた庭園が広がっている。昼間にエレナが立っていた場所を見つめると、さっきの笑顔が目の前によみがえった。
アルヴィンとエレナ。よく似合う二人。
その姿を思い浮かべた瞬間、ミリアの目から雫がこぼれた。
雨粒ではなかった。冷たい風が頬を撫でる。ミリアは前足で顔をぬぐったが、次の雫がすぐに落ちる。
どうして泣いているのだろう。エレナは優しい人だ。二人が仲良くなれば、自分だって嬉しいはずなのに。
そのとき、背後で扉が開いた。
「ミリア?」
アルヴィンの声が、静かな夜に響く。彼は部屋にミリアがいないことに気づき、探しに来たのだろう。外套を肩にかけ、少し心配そうにこちらを見ている。
「こんなところにいたのか。寒くないか?」
アルヴィンは膝をつき、ミリアに手を差し出した。
ミリアは彼を見上げた。言いたいことはたくさんある。行かないで。私を見て。あなたの隣にいたい。
けれど、喉から声は出なかった。
小さな鳴き声ひとつ、彼に届けられない。
ミリアは、差し出された手に頬を寄せた。アルヴィンの指が、目元をそっとぬぐう。
「泣いていたのか?」
ミリアは、彼の手に頬を押しつける。アルヴィンは理由を知らないまま、彼女を胸に抱き上げた。
「大丈夫。ここにいるよ」
腕の中はいつもと同じように温かい。ミリアは目を閉じ、彼の胸元に顔を埋めた。
そのぬくもりを手放したくないと思うほど、胸の痛みは深くなっていった。




