第2話:膝の上のぬくもり
第2話:膝の上のぬくもり
ミリアが城に来てから、数日が過ぎた。
朝になると、侍女が寝室の窓を開け、カーテンの隙間から柔らかな光を招き入れる。ミリアは籠の中で目を覚まし、伸びをひとつしてから、部屋の入口をじっと見つめた。
ほどなくして、アルヴィンが顔を出す。
「おはよう、ミリア。よく眠れたかい?」
ミリアは返事の代わりに、籠から飛び出して彼の靴にすり寄った。アルヴィンは笑いながら抱き上げる。最初は抱かれるたびに体を強張らせていたミリアも、今では彼の腕の中がすっかりお気に入りだった。
「今日も一緒に来るか?」
そう尋ねられれば、もちろん、とばかりに喉を鳴らす。
アルヴィンの執務室は、朝から書類でいっぱいだった。大きな机の上には、国境の街から届いた報告書や、城の修繕計画、家臣たちの署名が必要な書類が積み重なっている。
アルヴィンは椅子に腰かけ、ミリアを膝に乗せたまま仕事を始めた。
「まずはこの報告書を読んで……次に、こちらへ返事を出して……」
独り言をこぼしながら、彼はペンを走らせる。ミリアは膝の上で丸くなり、文字の並ぶ紙を眺めていた。
人間だった頃、自分も文字を読めたはずだ。けれど、今は内容を思い出せない。知らない文字を追うように目を動かしていると、アルヴィンがふと手を止めた。
「ミリアには、これが面白いのか?」
面白いというより、気になるのだ。そう伝えようと、ミリアは机の上に前足をかけた。
その拍子に、アルヴィンの肘が書類の束に当たり、一枚が床へ滑り落ちる。
「あっ」
アルヴィンが拾おうとするより早く、ミリアは紙に飛び乗った。紙はひらりと床を滑り、ミリアはその上で前足を踏ん張る。止まった紙を見下ろし、得意げにしっぽを立てた。
「助かったよ。大切な書類だったんだ」
褒められたミリアは、もう一枚の紙にも前足を乗せた。今度は落とさないように見張っているつもりだったのだが、アルヴィンはくすりと笑う。
「全部見張ってくれるのかい?」
そうだ、とばかりにミリアは小さく鳴いた。
しばらくして、アルヴィンの手からペンが転がり落ちそうになった。ミリアはすかさず前足を伸ばし、机の端でそれを押し戻す。ペンは机の中央で止まった。
「おお、ありがとう。君は本当に賢いな」
頭を撫でられ、ミリアは彼の膝の上で目を細めた。アルヴィンの仕事を手伝っているつもりなのに、気づけば撫でてもらう時間のほうが長い。けれど、その手は優しく、膝の上は温かかった。
昼食の時間になっても、アルヴィンはミリアを離そうとしなかった。
「食事の席まで連れていくのですか?」
侍従が少し困った顔をする。
「ミリアは行儀がいいから大丈夫だよ」
アルヴィンはそう言って、食堂の椅子に腰かけた。ミリアは彼の膝の上に座り、運ばれてくる料理を眺める。焼きたてのパンからは香ばしい匂いが立ちのぼり、皿の上には色とりどりの野菜や肉料理が並んだ。
ミリアが鼻をひくひくさせていると、アルヴィンは自分の皿から小さなかけらを取り分けた。
「これはミリアには少し濃いかな。君用の食事をあとで持ってきてもらおう」
ミリアは残念そうに皿を見つめた。アルヴィンはそれに気づき、困ったように笑う。
「そんな顔をしても駄目だよ」
そのとき、ミリアの耳が食堂の入口へ向いた。数人の大臣と、見慣れない使者が入ってくる。使者はアルヴィンの前まで進み、深く頭を下げた。
「殿下。公爵家より、正式な返答が届きました」
アルヴィンの表情が、わずかに改まる。
「エレナ嬢とのご婚約を、謹んでお受けするとのことです」
大臣たちが祝いの言葉を口にし、食堂にいた者たちも次々と祝福を述べた。アルヴィンは礼儀正しく微笑み、使者の言葉に頷いた。
「公爵家に感謝を伝えてください。エレナ嬢にも、近いうちにお会いできるのを楽しみにしていると」
周囲からは、王太子の婚約にふさわしい晴れやかな声が上がる。
ミリアは、アルヴィンの膝の上でじっとしていた。
エレナ。婚約。結婚。
言葉の意味は分かる。けれど、それが自分の胸に何をもたらしたのかは分からなかった。
アルヴィンは嬉しそうに見えた。穏やかな笑顔を浮かべて、祝福を受けている。きっと、それが王子として正しいことなのだろう。
そう考えようとしたのに、ミリアの胸の奥が、ちくりと痛んだ。
昼食のあいだ、アルヴィンはいつもと変わらずミリアを撫でてくれた。けれど、ミリアは料理にも、彼の声にも、うまく気持ちを向けられなかった。
夜になり、アルヴィンは執務室からミリアを連れて寝室へ戻った。
「今日は少し疲れたな」
彼は椅子に腰かけ、ミリアを抱き上げた。いつものように胸元へ寄せ、背中をゆっくり撫でてくれる。
「君がそばにいてくれると、ほっとするよ」
その言葉に、ミリアの胸がまた痛んだ。
どうしてだろう。アルヴィンが優しくしてくれるのは嬉しい。膝の上の温もりも、名前を呼ばれることも好きだ。それなのに、彼の隣に別の誰かがいる未来を思うと、胸の奥が冷たくなる。
自分でも理由が分からず、ミリアはアルヴィンの服に前足をかけた。
「眠いのか?」
アルヴィンが小さく笑う。ミリアは目を伏せ、彼の腕の中に体を丸めた。
彼の手が、何度も優しく背を撫でる。
ミリアは、その温もりに包まれながら目を閉じた。胸の痛みは、眠りに落ちても消えなかった。




