第1話:雨の日に拾われた子猫
第1話:雨の日に拾われた子猫
雨の音が、世界をすっかり塗りつぶしていた。
庭園の大理石の噴水は激しい水しぶきに波立ち、咲きかけた薔薇の花々は重たげにうなだれている。石畳には冷たい雨水が川のように流れ、足元を容赦なく叩いていた。
その片隅、生け垣のわずかな窪みに、一匹の子猫が小さくうずくまっていた。
白と灰色の柔らかな長毛は泥混じりの水を吸って重く垂れ下がり、やせ細った体にぴったりと張りついている。凍えるような震えを少しでも抑えようと、子猫は前足を胸の下に小さく折り込み、丸くなっていた。
――寒い。誰か、助けて。
叫んだつもりだった。けれど喉の奥からこぼれ出たのは、「みゃあ」というかすれて消え入りそうな鳴き声だけだった。
子猫は、自分がなぜこんな場所にいるのか、何ひとつ思い出せなかった。
ここがどこなのか。どうして雨に打たれているのか。さっきまで誰と、どこにいたのか。記憶を手繰り寄せようとすればするほど、思考の奥深くに濃い霧が立ち込めて視界を奪っていく。
自分には、もっとしなやかな人の手があったような気がする。誰かの名前を親しげに呼んでいた記憶もある。けれど、手を伸ばそうとすれば、その輪郭は雨粒と一緒に指の隙間からこぼれ落ちてしまうのだ。
ただ、たったひとつだけ、耳の奥にこびりついて離れない声があった。
『愛する人から、真実の愛を告げられたとき――その呪いは解ける』
それは誰の声だったのだろう。深く、どこか楽しげで、それでいて底知れず冷たい響き。暗い雨音によく似た声だった。
『けれど、それまでは猫の姿のまま。あなたの声は、誰の耳にも届かない』
その言葉が蘇った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられるように痛んだ。
呪い。猫の姿。愛する人。
どれも今の自分には無縁の言葉のはずなのに、どうしてか耐えがたいほどの寂しさが込み上げ、涙が滲む。けれど、猫の瞳からこぼれ落ちたのは、ただの冷たい雨粒だけだった。
もう一度、立ち上がろうと前足を踏ん張った。けれど泥水に足を取られ、体は頼りなく傾いて、ぐらりと冷たい敷石の上に倒れ込んでしまう。
全身の力が抜け、視界が暗くなりかけた、そのときだった。
雨音の向こうから、近づいてくる足音がした。
ぴちゃり、ぴちゃりと、水たまりをまっすぐに踏みしめる確かな靴音。子猫がおそるおそる顔を上げると、傘も差さずに歩いてくる青年の姿が視界に入った。上等な黒い外套の裾はぐっしょりと濡れ、額に張りついた髪の先から雫が絶え間なく滴っている。
青年はふと足を止め、生け垣の影に視線を落とした。
「こんなところに、子猫が……?」
周囲を見渡しても、庭師や侍女の姿はない。雨をしのげる回廊からも遠く離れた場所だった。
子猫は必死に顔を上げた。助けてと、もう一度だけ声を絞り出す。届いたのは、風音にかき消されそうな、か細い吐息のような鳴き声だった。
青年は迷うことなく駆け寄り、水たまりも気にせずその場に膝をついた。
「おいで。ひどく冷えているな」
差し出された青年の手に、子猫は思わず身を縮こまらせた。知らない人間だ。逃げなければいけない。本能がそう告げているのに、かじかんだ四肢は鉛のように重く、びくとも動かなかった。
青年の細く長い指先が、濡れた毛並みにそっと触れる。
子猫の体が小さく跳ねた。けれど、その手はどこまでも穏やかで、壊れものを包むように背中へと滑り、首の後ろを優しくなだめるように撫でた。掌からじわりと伝わる熱が、雨で芯まで凍りついた体へ、驚くほど自然に染み渡っていく。
「怖がらなくていい。もう大丈夫だ」
青年は濡れた外套を脱ぐと、惜しげもなく子猫の全身を包み込んだ。
上質な布が冷たい風雨を遮り、青年の胸元から確かな人の体温と、微かな香木のような匂いが届く。子猫はもう抵抗する気力を失い、救いを求めるように、そのぬくもりの中へと深く身を沈めた。
「怪我はないようだな。……どこから迷い込んだんだ?」
青年の問いかけに、人間の言葉で答えることはできない。
子猫は、外套の隙間から青年の顔を見上げた。雨露に濡れた切れ長の眉と、穏やかに弧を描く澄んだ青い瞳。そこには、薄汚れた生き物への嫌悪や浅薄な憐れみなど微塵もなく、ただひとつの小さな命を真摯に案じる光が宿っていた。
「名前はあるのか?」
名前。
子猫は、微睡みかけていた瞳をわずかに見開いた。
記憶の靄の向こう側から、誰かが自分を呼ぶ声が微かに響く。雨の音にかき消されそうになりながらも、ずっと昔から自分を形作っていたはずの、柔らかな音の連なり。
――ミリア。
青年はしばし子猫の瞳をじっと見つめ、何かを思案するように首を傾げた。
「……ミリア、というのはどうだろう」
子猫の三角の耳が、ぴくりと跳ねた。
青年の唇からその音が紡がれた瞬間、凍てついていた胸の奥で、カチリと何かが噛み合うような音がした。そうだ、その名だ。忘れていたはずの自分の名。
「気に入ってくれたか?」
目を見張る子猫の反応を見て、青年はふっと目元を和らげた。
「では、今日から君はミリアだ」
ミリアは返事の代わりに、細く喉を鳴らした。失ってしまったはずの名前を、彼が呼んでくれた。その温かさが、泣き出したいほど誇らしく、嬉しかった。
青年はミリアを外套ごとしっかりと腕に抱き上げ、雨煙る庭園を後にした。城へ続く回廊を足早に進みながら、彼は腕の中の様子を何度も確かめる。
「すぐに温かい部屋へ行こう。寝床と、温かいミルクも用意させるからな」
ミリアは青年の胸板に額を預け、目を閉じた。外では相変わらず冷たい雨が降り続いていたが、この腕の中だけは、世界で一番安全な場所に思えた。
やがて城の裏口をくぐると、濡れ鼠の主人の姿に気づいた侍従たちが青ざめて駆け寄ってきた。
「殿下! このような大雨の中を……すぐにお召し替えを!」
「僕のことは後でいい。それより、この子を温める柔らかな布と、温めたミルクを頼む」
「かしこまりました。……ですが殿下、その子猫は一体……」
「庭園で見つけたんだ。僕が部屋で預かるよ」
青年は事も無げに言い切った。侍従は目を見張ったものの、その揺るぎない眼差しに気圧され、深々と一礼して廊下の奥へと走っていった。
すれ違う家臣たちが次々に頭を下げ、「アルヴィン殿下」と口々に呼ぶのを耳にして、ミリアは彼がこの国の第一王子であることを知った。
アルヴィン。ミリアはその名前を、胸の奥で大切に転がした。
王子の私室にある暖炉には赤々と火が焚かれ、毛布を敷き詰めた籐籠が用意された。ミリアは柔らかな乾いた布で水気を丁寧に拭い取られ、目の前に湯気の立つ小皿を差し出される。
最初は警戒したものの、漂ってくる甘い香りと飢えには抗えなかった。舌先を伸ばして恐る恐るミルクを舐めとる。温かく、甘い液体が喉を通るたび、強張っていた体がじんわりとほぐれていく。夢中で平らげる姿を、アルヴィンは床に腰を下ろして微笑みながら見つめていた。
「気に入ってくれたようでよかった」
お腹が満たされると、体の震えはすっかり治まっていた。アルヴィンは毛布の上に丸くなったミリアの顔を覗き込み、細い指先でそっとあごの下を撫でる。
「本当にきれいな瞳をしているな。……まるで、夜の星空を閉じ込めたみたいだ」
ミリアは青く澄んだ瞳で彼を見つめ返した。王子の瞳に映っているのは、濡れてみすぼらしい子猫の姿だ。それでもアルヴィンは、まるで何にも代えがたい宝物を慈しむように見つめていた。
「これからよろしく、ミリア」
差し出された指先に、ミリアは自ら頭をすり寄せ、小さな頬を押し当てた。
人間だった頃の記憶はまだ霧の彼方に沈んだままだ。呪いのことも、あの冷たい魔女の声も、どうして自分がここにいるのかも分からない。
けれど、この人の手のひらのぬくもりだけは、信じてもいいような気がした。
アルヴィンは満足そうに喉を鳴らすミリアの背中を優しく撫で、籠のすぐ隣に椅子を引き寄せた。
「今夜はずっとそばにいる。だから、安心して眠るといい」
暖炉のはぜる小さな音が、静まり返った部屋を包み込む。外の雨音はすっかり遠のき、敷かれた毛布はどこまでも柔らかく、すぐそばには確かな命の気配があった。
ミリアは体を丸め、投げ出された王子の指先に、自分の前足をそっと重ねた。
もう、凍えるような雨の中で独りきりではない。
心地よい微睡みに身を委ねながら、ミリアは静かに瞼を下ろした。




