おまけ
雨の日に拾ったあの日から、僕の部屋の主権は完全にあの白灰色の毛玉に奪われていた。
「ミリア、頼むからそこを退いてくれないかい」
机の上、国境警備に関する最重要報告書のど真ん中に、ミリアは香箱座りでどっしりと鎮座している。
声をかけると、ぴくりと三角の耳をこちらに向けただけで、顔は明後日の方向を向いたまま。ふさふさの灰色のしっぽが、パタン、パタンと規則正しく書類を叩いている。明らかに機嫌が悪い時の合図だ。
「これにサインをしないと、大臣たちが部屋に押し寄せてくるんだよ」
困り果てて手を伸ばすと、スチャッと俊敏に頭を引かれ、僕の手は空を切った。
完全なる塩対応。数日前まで、僕が執務机に向かえば嬉しそうに膝へ飛び乗ってきて、喉をゴロゴロ鳴らしながらペンを追っていたあの子猫はどこへ行ったのだろう。
思い当たる節なら、ひとつだけあった。
「……もしかして、エレナ嬢のことかい?」
その名を口にした瞬間、ミリアの青い瞳がギロッと僕を睨みつけた。
星空を閉じ込めたように美しいはずの硝子色の瞳が、いまや完全な据わり目になっている。
昨夜、公爵家との婚約が決まったという知らせが届いて以来、ミリアの態度は一変していた。
今朝など、僕が起きた瞬間に枕元へ飛び込んできたかと思えば、僕の胸元に全体重をかけて強烈な頭突きを食らわせてきたのだ。
ゴシゴシと力任せに額を僕の寝間着に擦りつけ、「フンッ!」と鼻を鳴らして去っていく。まるで、誰かの気配を自分の匂いで力ずくで上書きして消し去ろうとするかのような執念だった。
「ミリア、僕は別に好きで結婚するわけじゃ――」
言い訳をしかけた瞬間、ミリアがすっと立ち上がった。
そして、僕の顔をじっと見つめながら、前足をゆっくりと伸ばす。
その足先が狙っているのは、机の端に置かれたエレナ嬢からの手紙――ではなく、公爵家から婚約の記念にと贈られた高級な焼き菓子の小箱だった。
「あ、待って、それは」
チョイ。
「ミリア?」
チョイ、チョイ。
「だめだよ、落としたら割れ――」
**カシャアン。**
見事な放物線を描いて、陶器の小箱が絨毯の上に落下した。中から飛び出したクッキーを踏んづけそうになりながら、ミリアは涼しい顔でぺろりと前足を舐めている。
……わざとだ。絶対にわざと落とした。
「……いたずらが過ぎるよ、お嬢さん」
ため息をつきながら抱き上げようとすると、ミリアは「シャーッ!」と小さく威嚇音を立て、脱兎のごとくベッドの下へ潜り込んでしまった。
床に這いつくばって暗がりを覗き込むと、奥のほうで青い瞳がらんらんと光っている。
「どうしてそんなに怒るんだい。僕が何か気に障ることをしたなら謝るから、出ておいで」
呼びかけても、フシュッと短く息を吐いて背中を向けられるだけ。
まったく、気まぐれで、理不尽で、猛烈に扱いにくい。
ただの猫だ。言葉なんて通じるはずもない。それなのに、あの頑なな態度はまるで――僕がほかの誰かに目を向けたことが許せなくて、精一杯のやきもちを焼いている少女のようではないか。
……いや、猫相手に何を馬鹿な想像をしているんだ、僕は。
「……今夜のミルク、少し蜂蜜を多めにしてあげるから」
そう呟いてみたが、ベッドの下からは小さな「フン」という鼻息が返ってきただけだった。
ため息をつきながら書類の片付けに戻る僕の背中に、暗がりから突き刺さるような熱い視線が注がれていることだけは、嫌というほど肌に伝わっていた。




