三文小説の世界③
津川教授は微苦笑した。
「外に出よう、後藤君。どうもここは、騒がしい」
何か話したいのだろうと理解した後藤は、こくりと頷いた。
外に出た二人は空を見上げた。空には満点の星が広がっていた。今日は快晴だったから、いい星空である。
「後藤君、僕は学者という職業だから、裏付けのない仮説は嫌いだ。だけど、今回はそういうのは抜きにして推測だけで語ろう」
「はい」
「僕が思うに、田中君はもう駄目だろう。永遠に『有坂かなめ』という幻想を求め続けるだろう」
どうしてという疑問を投げかけたかったが、ここは津川教授の話を聞くのがよいと判断した。
「君の話を聞いた限り、田中君は就職活動と卒業論文でかなり行き詰っていたようだね」
「そうです。自分より後から就職活動を始めて、成功した俺を嫉妬していたようですし、卒業論文を教授から小説と言われて不満もあったみたいです」
「原因はそれかもしれないな。田中君は就職活動と卒業論文で相当傷付いた。誰かに助けてほしかったのかもしれない。でも表現が上手じゃないから、誰にも助けを求めることができずに、ずっと悩み続けた。その結果、自分を助けてくれる『有坂かなめ』というありもしない幻想を生み出したのだろう」
「そうかもしれませんね……」
後藤は、ゆっくりと首を縦に振った。
津川教授は嘆息した。
「しかし、田中君も馬鹿だよ。悩んでいたのなら、教授である僕に、どうして相談してくれなかったのだろうか?僕はただ学問を教えるのが能の男ではないのに……」
思わず口がすべって「馬鹿」と言ってしまった津川教授の目が、一瞬光ったように見えた。
涙なのか確認したかったが、津川教授の目からすでに光は失せていた。
「どうした、後藤君?」
「なんでもありません。教授、こっちから質問してもよろしいですか?」
「答えれる範囲ならね」
「『有坂かなめ』とはなんだったのですか?」
「美しい言葉で済ませると、荒廃した世界で、孤独に生きる主人公を助けにやって来た救いの女神かな」
「……まるで三文小説ですね。というより、それ以下ですね」
「しかし、その安っぽい『三文小説の世界』で田中君はまだ『有坂かなめ』と生きている」
二人の間に冷たい沈黙が流れた。一歩間違えれば、自分たちも栄二と同じ運命になりかねないのである。
それは自分たちの周囲を歩いている人たちにも言えることだ。あるいはすでに、なっているかもしれない。
沈黙を打ち破るかのように、居酒屋の方から卒業生たちの声がしてきた。どうやら打ち上げパーティーは終わったようである。
「くだらない仮説はここまでにしよう。それにしても、裏付けの無いものは、本当につまらない。学者としてやるべきことではないよ。とにかく卒業おめでとう、後藤君。四月から社会人として頑張れよ」
「先生」
「なんだい?」
「今度、栄二を訪ねてみようと思います」
「好きにしなさい。ただし、君を見てもなんと言うか分からないよ」
「ええ」
二人はそこで別れた。後藤は津川教授の姿が視界から消えるまで、ずっと見ていた。
突然風が吹いた。
体中に痛みがはしったが、風のせいである。
早く帰ろう。後藤は家路を急ぐことにした。




