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同情から始まる恋愛事情  作者: 桔梗


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3/4

同情の夜

勢いよく振り返る。


「……最悪」


月明かりの届かない木陰に、一人の男がいた。

石造りの長椅子に深く腰掛け、片手には酒の入ったグラス。


夜よりも暗い黒髪。

冷たい印象を与える灰青色の瞳。

黙っていれば絵画の中の貴公子のようなのに、口を開けば大抵ろくなことを言わない。


グレン・オルガノ。

侯爵家嫡男で、成績優秀。

容姿もよく、将来有望。

そしてーーセラとは幼馴染であり、犬猿の仲である。


今、最も顔を合わせたくない男だった。


「どうしてあなたがいるのよ!人の独り言を盗み聞きするなんて、ほんと趣味が悪いわね」


「勝手に聞こえてきたんだ」


「聞こえても聞かなかったことにするのが紳士でしょう」


「残念ながら、君相手に紳士であろうと思ったことがないのでな」


「でしょうね。いいからーーどこかへ行って」


「俺が先にいたんだけど?」


セラは大きなため息をついて、踵を返した。


「どこへ行くんだ?」


「あなたのいないところよ」


「泣かないのか?」


セラの足が止まった。

一拍遅れて、振り返る。


「……何ですって?」


「せっかく人のいない場所まで逃げてきたんだろうに」


グレンはグラスを傾ける。


「泣けばいいじゃないか」


(ーー本当に最低な男!!)


「誰が泣くものですか!」


この男には、弱みを見せたくない。


ーー幼い頃からずっとそうだった。

セラが木登りに失敗して落ちれば笑われ、グレンが乗馬で泥まみれになれば、その翌日まで笑い返す。

試験で一点でも上回れば自慢し、舞踏会で足を踏まれれば倍の力で踏み返したものだ。


そういえば、グレンは今夜、一度も笑っていない。

それどころかーーよく見れば、随分前からここにいたらしい。

足元には空になった酒瓶が、三本もある。

セラは目を細めた。


「……あなた、ここで何をしてるの?」


「酒を飲んでいるんだよ。見ればわかるだろ?」


「婚約祝賀夜会の真っ最中に一人で?」


「俺は人混みが嫌いなんだ」


「嘘ね」


グレンの眉が僅かに動いた。


「なぜそう思う」


「あなた、人混みが嫌いでも、必要なら笑顔で三時間くらい社交できる男でしょう」


「随分俺のことに詳しいんだな」


「長年一緒にいたら、嫌でもわかるのよ」


セラは彼を見つめる。

今夜のグレンは何かがおかしい。

機嫌が悪いというより――。


「……もしかして」


グレンがこちらを見る。


ーーその時。


セラは彼の隣に、小さな箱が置いてあることに気づいた。

手のひらに収まるほどの小箱だった。


「ねえ、それ、何?」


グレンの手が止まった。

ほんの一瞬だったが、セラは見逃さなかった。


「見るな」


「そう言われたら見たくなるでしょう?」


「子供か!」


「ねえ、何が入ってるの?」


「お前には関係ない」


「女性への贈り物?」


ーー沈黙。


セラは瞬きをした。

グレンは貴族令嬢たちから山ほど贈り物を受け取る側であって、自分から女に贈り物をするような男ではないのに。

少なくとも、セラの知る限りではーー。


「へえ……」


「何だ」


「あなた、好きな人いたの?」


グレンの眉間に皺が寄った。


「なぜ嬉しそうなんだ」


「だって、意外なんだもの」


「俺を何だと思ってるんだか」


自分以外の誰かの恋愛話など、今は聞きたくないはずだが、グレンの話となれば別だ。

弱みがあるのなら知っておきたい。

これは、長年の宿敵として当然の欲求である。


***


「ーーで、誰なのよ?」


「言うわけがないだろ」


「私も知ってる人?」


「言わない」


「どこのご令嬢?」


「言わない」


「お相手に恋人は?いないわよね?」


「セラーー」


低い声だった。


「……何よ」


「少し黙ってくれ」


本気で嫌そうな顔をしている。

セラは鼻を鳴らした。


「私の失恋は見ておいて、自分の恋は秘密なんて不公平じゃない」


「それはお前が、あからさますぎるからだろうが」


「……うるさいわね。本当にあなたは紳士らしくないわ」


「はいはい、どうも」


グレンはめんどくさそうに受け流す。

セラは近くの石椅子に腰を下ろした。


沈黙が落ちる。

遠くから演奏の音が聞こえた。

セラは膝の上で指を組んだ。


「……ねえ」


「何だ」


「……十六年って、長いと思う?」


グレンがちらりとこちらを見る。


「急になんだよ」


「いいから、答えて」


グレンは少し考えたあと、「長いな」と言った。


「そうよね」


「お前がまだ四つの頃だったか?『私はエドワード殿下のお嫁さんになるの』って言ってたよな」


グレンが微笑む。


「……もう忘れて」


「無理だな」


「お願いだから忘れて」


グレンの口元がほんの少しだけ緩んだ。

セラは恨めしそうに睨む。


「……十六年も好きだったのに……。明日から私……どうしたらいいのかな」


「何もしなくていいだろ」


「え?」


「今日までと同じように、ただ生きればいいだけさ」


あまりにも簡単に言うから腹が立った。


「簡単に言わないでよ!」


セラがそう言った瞬間、グレンの表情が変わった。


「……グレン?」


彼は答えない。

代わりにグラスを煽る。


「わかるさ」


静かな声だった。


「あなたにわかるはずないわ」


「わかるんだって。俺も……同じだから」


セラは瞬きをした。


「……何が?」


グレンは諦めたように息を吐く。


「……さっきの箱、本当はずっと前に渡すつもりだったんだ」


「誰に?」


「……」


月の光が、彼の横顔を薄く照らす。

いつもなら憎たらしいほど余裕のある男が、今夜は少しだけ年相応に見えた。


「……セシリアに」


一瞬、時が止まったかのように感じ、セラはグレンの言葉の意味を理解できなかった。


「……え?」


「二度も言わせるなよ」


「……ちょ、ちょっと待って!」


セラは彼を凝視した。


「セシリアってーー」


「今夜、殿下と婚約した聖女だ」


「それはわかってるわよ!」


思わず立ち上がる。


「あなた、セシリア様が好きなの!?」


「ーー声が大きい!」


「だって!」


慌てて口元を押さえる。

周囲を見るが、幸い、二人以外誰もいなかった。


「……いつからなの?」


「……三年前」


「三年!?」


「ーーだから声を落とせって!」


「……あなた、三年も私に黙ってたの?」


「お前に報告する義務があるか?」


「ないけど!ないけど……」


頭が追いつかない。


(グレンがセシリアを好き?)


セラはこれまで、彼が女性を好きになる姿など想像したこともなかった。

ましてやーーその相手が、聖女セシリアだなんて。


「……告白は?」


「してない」


「どうして?」


グレンは呆れたような目でセラを見た。


「どうしてって……。お前だってしていないだろうが」


「……それを言われると弱いわね」


「だろ」


グレンは深くため息をついた。

それから、大広間の方を見る。

ここからでは二人の姿は見えない。

それでもーー、その視線が誰を探しているのか、今ならわかった。


しばらくの間、二人とも何も言わなかった。

夜風が白薔薇を揺らす。

遠くで、また大きな歓声が上がった。


ついさっきまで、この世で一番不幸なのは自分だと思っていた。

胸にぽっかり、大きな穴が開いたようで、明日からどう生きればいいのかさえわからなかった。


「……私たち、とんでもなく惨めね」


「……」


グレンが酒瓶を取る。

空になった自分のグラスへ注いだ。


「私にもちょうだい」


「駄目だ」


「どうしてよ!」


「お前は酒に弱いだろ」


「今夜くらいいいでしょう?ね?お願い」


グレンはしばらくセラを見た。


「一杯だけだぞ?」


そう言って、グレンはグラスへ酒を注ぐ。

セラはそれを受け取った。

琥珀色の液体が月明かりを反射して揺れている。


「何に乾杯する?」


「……婚約した二人に?」


グレンが即答した。

セラは真顔になる。


「あなた、性格悪いわね。もっと他にあるでしょう?」


「例えば?」


セラは考えた。

二人の幸福?自分たちの未来?

少し悩んでから、セラはグラスを上げた。


「……私たちの失恋に」


グレンが黙った。


「ふっ」


グレンは噴き出した。


「何よ!」


「いやっ」


「笑ったでしょう!」


「悪い悪い」


笑いながら、グレンもグラスを持ち上げた。

二つのグラスが触れ、澄んだ音がした。


***


その夜ーー、セラは、自分の初恋が終わったのだと思っていた。


だから、世界で一番嫌いな男と酒を飲んだことも、彼の初恋を知ってしまったことも、全部ーー今夜だけのことだと思っていた。

朝になれば、また以前と同じように嫌い合えばいい。

今夜だけーー、今夜だけは、好きな人に選ばれなかった者同士

……少しくらい互いを可哀想だと思ってもいいのではないか。


――その程度のことだと、この時の二人は本気でそう思っていた。

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