長い初恋と片想いの終わり
私の初恋は、十六年と三か月で終わった。
正確には、恋をしたのが四歳だったから、初めから恋だったのかどうかはわからない。
四歳児の「好き」と二十歳の「好き」が同じものかと問われれば、自信はない。
それでもーー、彼以外の男性を好きになったことがないのだから、仕方がない。
ーー宮殿の広間の中央。
皇帝陛下の声が響いていた。
煌びやかなシャンデリア。
磨き上げられた大理石。
壁際には、この国の名だたる貴族たち。
そして、その中心に、エドワードがいた。
金色の髪、青い瞳、穏やかな微笑みーー昔から何ひとつ変わらない。
だがーー今日は彼の隣に、一人の美しい女性が立っていた。
「皇太子エドワード・グランローズ殿下と、聖女セシリア嬢の婚約を、ここに正式に発表するーー」
皇帝の言葉が大広間に響いた瞬間、割れんばかりの歓声が上がった。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが煌めき、楽団が高らかに祝福の曲を奏で始める。
拍手が起きた。大きな、大きな拍手だった。
私も手を叩いた。
ーーぱち、ぱち、ぱち。
逃げてしまいたかった。
けれど、公爵令嬢セラ・ヴィルヘルミナは逃げられない。
天井を埋め尽くす水晶灯が、まるで今日という日のために用意された星々のように輝いている。
こんな場所で泣くわけにはいかない。
エドワードの幼馴染としてーーそして、親友としてーー盛大に喜ぶべきことだ。
皇太子と聖女。
これほどまでに「お似合い」という言葉が似合う二人もいない。
帝国の未来を担う皇太子と、神から祝福を授かった少女。
絵本の最後に描かれるような、美しい婚約だった。
「……まぁ!」
誰かが、小さく声を上げた。
セラは何気なく壇上を見る。
エドワードが、セシリアへ手を差し出して微笑んでいた。
彼女がその手に自分の手を重ねる。
それだけだったけれど、セシリアの手が触れた瞬間、エドワードの表情が変わった。
十八年間見てきた。
子どもの頃から。
ーー嬉しい時。
ーー怒っている時。
ーー悲しんでいる時。
ーー退屈している時。
どんな顔をするのか知っている。
だからこそ、わかる。
セラには、一度もあんな顔をしたことがないのだから。
「……そっか。そっかぁ」
思わず声が漏れた。
セラはしばらくその場から動けなかった。
***
「セラ」
聞き慣れた声がした。
反射的に顔を上げる。
エドワードがこちらへ来る。
隣には当然、セシリアがいる。
逃げるには手遅れだった。
「来てくれていたんだな」
「招待状を送ったのは殿下でしょう」
「送らなくても来ただろう?」
「当然でしょう。国家に関わるお話ですもの」
自分でも驚くほど、普通の声が出た。
ーー二十年間、公爵令嬢として育てられてきた甲斐があった。
たとえ心臓がぐちゃぐちゃになっていても、堪えて微笑むくらいのことはできるから。
「おめでとうございます、殿下」
セラは微笑んだ。
「セシリア様も」
「ありがとうございます、セラ様」
セシリアも笑った。
眩しいくらい幸せそうだった。
嫌いになれればいいのにーーと、セラは思った。
彼女が実は高慢で意地悪な女だったなら……、エドワードを利用しているような女だったなら……きっと、徹底的に嫌って、反対してーー今よりもずっとマシだったはずなのに。
けれどーーセシリアは、優しくていい子だ。
初めて皇宮へやってきた頃、慣れない作法を間違えて笑われていた侍女を庇ったことを、セラは知っている。
貴族の子供が転んだ時、自分のドレスが泥だらけになることも構わず抱き起こしたことも。
神殿から支給される給金のほとんどを孤児院へ寄付していることも。
全部ーー知っている。
だから、憎めない。
むしろ、エドワードが好きになるのも当然だと思えてしまう。
それが一番苦しかった。
「セラ様のお話は、殿下からよーく伺っていますよ」
セシリアが言った。
「……私の?」
「ええ」
セシリアが嬉しそうに頷く。
嫌な予感がした。
「幼い頃から、妹のように可愛がっている大切な方なのだと」
笑顔が固まりそうになった。
ーー妹。
ーー妹。
ーー妹。
頭の中で、その二文字が三回くらい反響した。
公爵令嬢として習った礼儀作法の中に、『十年以上恋していた男から妹扱いされた時の正しい笑い方』という項目がなかったことに、心底ガッカリする。
「……そう、ですか」
どうにか笑った。
エドワードは、そんなセラの心情など知る由もなく、呑気に続ける。
「昔から、本当に手のかかるーー妹だからな」
「ーー誰が、手のかかる妹ですか!」
思わず返していた。
エドワードが笑う。
「ほら、こういうところだ」
「殿下こそ、昔から人のことを子供扱いして」
「はいはい、ごめんね〜」
これが、いつものやり取り。
昔ならーーそれだけで幸せだった。
こうして話せることが。
名前を呼んでもらえることが。
笑ってもらえることが。
ーーけれど今は、その全てが胸に棘のように突き刺さる。
だって……もう……、「いつか」はない。
いつかエドワードが自分を女として見てくれるかもしれない。
いつか求婚してくれるかもしれない。
いつか隣に立てるかもしれない。
そんな馬鹿みたいなーー「いつか」が、今日、完全になくなったのだから。
「セラ?」
「……はい?」
「顔色が悪いぞ」
エドワードが心配そうに覗き込んでくる。
近いーー昔からそうだ。
この人は無自覚に顔を近づける癖がある。
だから期待してしまった。
ーー何度も。何度も。
「大丈夫です」
「本当に?」
「ええ」
「ならいいんだが」
エドワードはまだ心配そうだった。
「私は少し、風に当たってまいりますね」
「夜は冷えるから、早めに戻るんだぞ?」
「……はい」
それだけ答えて。
セラは背を向けた。
大広間を出て、長い回廊を歩き、侍女に声を掛けられても「少し風に当たるだけ」と笑って。
ーー歩いて、歩いて、歩いて。
人の声がほとんど聞こえなくなるところまで来て、ようやく足を止めた。
皇宮西側にある、小さな中庭だった。
夜会の日でも、こちらまで足を運ぶ貴族は少ない。
白い薔薇が月明かりを浴びている。
「……妹」
自分で言って、笑いそうになった。
「妹、かぁ……」
十年近い片想いの結末がーー妹。
なんとも締まらない。
いっそーー「お前みたいな女、死んでも愛せない」くらい言ってくれれば、嫌いに慣れたかもしれないのに。
エドワードに悪意など欠片もない。
むしろ最大級の親愛なのだろう。
視界が滲んで、慌てて上を向く。
(……駄目。泣いてはだめよ、セラ!)
ここは皇宮だ。
誰に見られるかわからない。
『ヴィルヘルミナ公爵家の令嬢が、皇太子の婚約を悲しんで泣いていた』ーーそんな噂が立てば、お父様にも、お母様にもーーそして何より、エドワードに迷惑がかかる。
「泣かないわ」
声に出す。
「別に、失ったわけじゃないもの!」
そうだ。そもそもエドワードが自分のものだったことなど一度もない。
一度も恋人だったことはないし、告白したことすらない。
ただ勝手に好きになって、勝手に期待して、勝手に傷ついているだけだから。
「……本当、馬鹿みたい」
口にした瞬間。
「それには同意する」
この世界で最も聞きたくない声がして、セラの涙が引っ込んだ。




