4話
翌朝。
「こらこら、これを忘れないでおくれよ」
玄関で靴を履いている私に、寝癖を直しながら言ってきた。
手には、血の入った試験管。一応、冷蔵庫で保管していたのだが、すっかり忘れていた。
引きつった顔で、それを受け取り扉を開ける。朝日に迎えられた風花の笑顔が眩しい。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
「いってきます」
私が扉を閉めるまで、その笑顔は向けられた。
昨日のことが、まるで現実に起こったことだとは思えない。魔法は様々なところで使われている。でも、私は使えなかった。
昨日までは。
今は使えないと分かっているが、あの時のように手を突き出す。もちろん、何も起きなかった。
やっぱり夢だったんじゃないかと思うが、体に残る痛み、頭を撫でられた感触。そして、赤く揺れる試験管が現実だと突きつけてくる。
受け入れるしかない。助けるためなら。
空いている手を、強く握りしめた。
†
「このまま行けば、順当に合格できるだろうね。でも、最後まで気を抜かないこと」
放課後の職員室、担任の渡會先生に進路希望調査票を手渡した。
「はい、もちろんそのつもりです」
「体調管理には気を付けてね。来夏さん、顔が疲れてるように見えるよ」
私よりも長く生きてきた先生には、見えるものがあるのだろう。心の中を見透かされた気分だ。
「そういえば、やりたいこととかはあるのかな?」
「特には決まってません」
先生はくしゃっとした笑みを浮かべる。とてもおおらかな笑顔で、ナマケモノのように見えた。
「そう、まあまだ若いから、ゆっくり考えればいいよ」
ありがとうございますと言い、深々と頭を下げ、職員室を後にする。
窓の外には、生徒たちの賑やかな笑い声。黄金色の空の下、その光景がいっそう眩しく見えた。別に、憧れている訳ではない。ただ、何気ない日常を眺めているのが好きなだけ。変質者みたいなことを考えているという自覚はあるが、好きなのだからしょうがない。
しかし、好きなのと同時に、怖くもある。私が無知で考えなしだったばかりに、誰かの日常を奪った記憶が蘇るから。腹の底から霧のように、後悔が立ち込める。それは、やがて瞼の奥を熱くした。肺がひきつるように痛い。
しっかりしろ。後悔しても、もう遅い。私は前に進まないと。それに反し、私の足は止まっていた。
頬を叩き、気持ちをリセットする。
無理に足を動かす。だけど、その歩幅は明らかに小さくなっていた。
――今を必死に生きて、いつかの明日に繋げるんだよ。すごい人は、みんなそうしてきたらしいよー。
ふと、お母さんの言葉を思い出した。小さい頃は、この言葉のおかげで頑張る気力をもらえていた。今はその限りではない。
だって、私はみんなの明日を奪ったんだから。
†
「遅いじゃ~ん、何してたの?」
「おつー」
靴箱に着いたのは、かなり遅い時間だった。それでも二人は、いつもの調子で話しかけてくる。
「あれ? 虹彩、琉実?」
「あれって何? せっかく待ってたのに、思ってた反応と違うんですけど」
琉実の亜麻色のウルフカットが揺れる。
「ごめんごめん、二人とも帰ってるかと思ってて」
「まあいいや、帰ろっか」
二人に手を引かれ、校門を抜ける。
「ねえー、なんで昨日、連絡返してくれなかったの?」
思わず、視線を逸らす。
正直に話してもいい内容じゃないよね。だって、虹彩が数人の男に襲われました。謎の少女に助けてもらいました。私は魔法を使いました。なんて言っていいものか。話すことで、関係のなかった琉実まで巻き込む可能性も捨てきれない。
「そのー、充電器なくしちゃって」
ニマニマした表情で、虹彩が言ってくる。
「えー!? 来夏って意外と抜けてるんだ!」
これは、どっちだ? 私の話に乗ってくれているのか、この話を信じているのか。
「そうなんだ。それでさ、二人は進路どうするの?」
虹彩は陸上の推薦で、大学に行くらしい。
「私は東大かな。選択肢が増えるし、学歴はあって損はないから」
「そうなんだ。じゃあ、私もそこ目指そうかな」
どこか遠くを見つめながら、琉実が言った。
「じゃあ、一緒に頑張ろうね!」
「うっ、うん。頑張ろっ……か」
彼女は頬に指を走らせて言った。しばらく歩くと、琉実は塾があるため別れてしまう。
ここからはいつも通り、虹彩と二人きりだ。
「虹彩が元気そうで良かったよ」
「まあねー、やっぱり落ち込んでるのは私らしくないし」
鼻を高くし、両腕を腰に当てる。
それでも、不安は隠しきれていない。声色がいつもより暗く、目の下にうっすらと隈ができている。
「怖くなったら、いつでも頼ってよ? なるべく力になるから」
返事が返ってこない。背中が小さく見えて、触れれば泣いてしまいそうだった。
「私のことも頼ってほしいな。来夏を見てるとさ、すごく不安になるの。笑った顔も、怒った顔も、全部が張り付けられたみたいで……」
時が止まったように思えた。周囲から音が消えて、鼓動の音だけが聞こえる。
「あの時からさ、ずっと心配だったの」
あの時、か。覚えてたんだ。
私は中学生の頃、隣のクラスの子が不登校になったのを知って、相談に乗りに行った。
どうやら、お金に困っていたらしい。無責任な私は、アプリで得た収益の一部を毎月渡した。最初は喜んで受け取ってくれたけど、ある日を境に、受け取ってくれなくなった。その子の両親が、私からの援助を頼るようになってしまい、仕事を辞めてしまったらしい。その結果、家庭が崩壊してしまった。結局、学校を辞めて、今は何をしているのか分からない。
無責任な正義感と善意は、他人の人生を狂わせることになると、この時、初めて知った。
お父さんは、この話を会社のイメージアップのための美談として利用した。
それならと、私はいろんな団体に募金したけど、中抜きされたり、戦争の資金にされてしまった。
私のせいで、血を流した人の姿を想像してしまう。どれだけ苦しかったのか、当たり前に来ると思っていた明日を絶たれる気持ち。今でも、その人たちの声が夢に出てくる。私を恨んで当然だ。それだけのことをした。
「来夏の抱えてるものってさ、一人の人間じゃ到底抱えられるものじゃないよ」
目の端に涙が滲んでいる。それなのに、笑顔。私の中の霧が晴れるような、そんな笑顔だった。
あまりに眩しくて、頬に涙が伝う。
あれ? 私、泣いてるの? もう、涙なんて出ないと思ってたのに、泣いちゃいけないと思ってたのに。
「だからさ、私にも分けてよ。二人だったら抱えられるんじゃない?」
「そうだね、ありがとう。虹彩」
そう言ったけど、駄目だよ。だって、私がしてしまったことを、虹彩に抱えさせることなんてできない。
私が一人で、ずっと抱えていかないと。
ごめんね、虹彩。
私たちは涙を拭い、もう一度歩き出した。
この時の私は、この考えが虹彩を傷つけるなんて思いもしなかった。無責任な正義感と善意を、繰り返しているとも知らずに。
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