透明な虹 ⑤
病の表現や最期を想像させる描写を含みます。苦手な方はご遠慮ください。
「お父様とお母様は、いつでも此処であなたを待っていますよ」
そう言われても、実感は全く湧かなかった。涙はもう枯れてしまっていた。
小さなガラス扉の向こうに、父さんと母さんの骨壷は納められた。
魂や幽霊の類は信じないし、此処に来たって、もう二度と家族と会えない事実は変わらない。
もしかしたら全部夢かもしれないなんて、抱いていた淡い期待は消え去った。
これは、ボクの古い記憶だ。
初めてこの場所を訪れた日。永遠の別れがボクを孤独にした日。
虹色のガラスに囲まれるたびに思い出す、冷たい記憶だ。
***
父さん。母さん。元気にしている?
しばらく来れなくてごめんね。
色々あったんだ。見たら分かると思うけれど。
びっくりしてるよね。ボクもそうなんだ。
こんな病気になるなんて、想像もしていなかった。
あっという間に身体が動かなくなって、自分じゃ息も出来なくなった。
悲しいよね。情けないし、すごく辛い。
ボクが選べば、父さんと母さんのところに行けたんだ。簡単だった。
でも、もう少し明日を待ってみようと思う。
優しい人たちに出逢えたから。もう少し、一緒に生きてみたい。いいかな?
いつかは必ず、また会いに行くよ。
そうしたらもう、絶対にお別れなんてしない。
それまではまた、此処で会おうね。待っていて。
***
目を閉じたまま、昨夜書いた手紙の言葉を反芻した。
毎年、一人で此処に来て、ただ手を合わせていた。枯れたはずの涙は、そのたびにどこからか湧いて溢れた。
そう思えば、時間を重ねるごとに七つの色彩は、複雑に鮮やかになっている気がする。
きっと、そうしているのはボクだけではないのだろうと、いつも思う。
ボクはもう、手を合わせられない。
こうして目を閉じて、父さんと母さんの姿を思い出して、心の中で願うことしか出来ない。
いつの日か向こう側に辿り着いたとき、ボクの身体はどうなっているのだろう。
久しぶりに会う父さんと母さんの前で、ボクはやっぱり、車椅子なのだろうか。
あらゆる苦しみから解放されるのなら、自分が願う姿に戻っていたらいい。
きっとそうなるはずだ。そう信じたい。
考えることはたくさんあった。此処に来ると、自ずと自分の未来を想像する。
長い時間の後で、ボクは目を開けた。優しい人たちは、変わらず隣に立っていてくれた。
初めて此処に友達を連れて来た。今日、初めてボクの頬は濡れていなかった。
「行こうか」
蒼葉はそう言って、深く頭を下げた。倣って眞白も頭を下げる。ボクが出来ない分、そうしてくれているように。
顔も知らないボクの両親に対する、最大の敬意だ。
蒼葉に押される車椅子が静かに動き出す。半歩前を行く眞白の肩が微かに震える。
ボクたちはそのまま、この場所を後にした。
建物の外は、春に満ちていた。動かない膝の上に、桜の花びらが舞い落ちてくる。
蒼葉の体調に気を取られていて、辿り着いたときには気が付かなかった。青空の下、頭の上は、桜の花が満開に咲いていた。
今年は蕾を付け始めるのが早かったのだろう。季節の巡る速度が速くなったのかもしれない。
「綺麗なところですね。本当に」
眞白はじっくりそう言った。感嘆の溜息は湿っていた。
「……ばれちゃいました?」
見つめるボクの視線を感じたのか、眞白はバツが悪そうに肩を竦めた。
「おい、そっとしておいてやれよ。俺は何も聞いてないぞ」
軽く流れるように、蒼葉はボクの後ろで笑った。
「わざとそう言われる方が、よっぽど恥ずかしいですよ。琥珀さんの方が優しい」
「タオル、黙って貸してやっただろ」
「それは、ありがとうございます。次に会うときに、洗ってお返ししますね」
二人がいつもの調子で会話が弾む。ボクは安心した。
「それで、どうしてお前が泣いたんだ」
「結局聞くんですね」
「琥珀が気にしてる。話だったら俺も聞いてやる」
車椅子を押す歩みを止めて、ボクの隣に蒼葉は膝をついた。ボクの膝の上を染める花びらを落とそうとして、その手が止まる。
「いい季節だな」
蒼葉の手は硬い節が目立って男らしい。けれどそれは、ボクの手に触れるとき、いつだって温かい。
「本当に。こんなに晴れた気分になるなんて、不思議です」
眞白の手は薄くて柔らかい。それは、いつもボクと似たような温度で心地いい。
ボクの両手が、二人に包まれる。
「……こんなことを話したら、お二人は怒るかもしれないんですけど」
そう前置きをして、眞白が話し始める。ボクたちはじっと、続きを待った。
「三人同時、なんてこと、絶対にあり得ないじゃないですか……いつかの日か、誰かが誰かに、こうして会いに来る日が来るじゃないですか。僕が一番先かもしれないし、最後かもしれないです。順番は分からないけれど」
眞白は、今ボクたちが出て来たばかりの建物に視線を向けている。言いたいことは、なんとなく分かった。
「その日まで、一緒にいられたらいいなって思って」
爽やかな風に乗って漂う眞白の声は明るい。
「僕、あの本に、“僕たちの道は、続いていく。”って、書いたんです」
「あぁ、よく覚えてるよ。何回も読んだからな」
蒼葉はボクに目配せをしながらそう言った。眞白がボクたちとの時間を書いた著書は、蒼葉が何度も読んで聞かせてくれている。
「僕たちが並んで歩むその先に、こんなに素敵な場所が待っているなら……僕はもう何も怖くないです。こんなに想い合える場所があるなら、安心です」
短く鼻を啜ってからこちらを向いた眞白は、大きな笑顔を浮かべていた。
「まだ、先のことだけどな。俺たちはまだまだ、明日を生きる。そうだろう」
不意に話を振られて、ボクは目を細めた。
きっとボクのこれからは、そう長くない。一番になるなら、それはボクだ。こんなことを言ったら二人は怒るだろう。
ボクの夢をなぞって話す蒼葉は、頼もしく胸を張る。
「俺は明日からも琥珀と暮らすし、眞白とも会いたいと思う」
「もし、琥珀さんや僕が、嫌だと言ったら?」
「関係ない。俺はその点だけは譲らない。安心しろ。最期のその先も、俺たちは一緒にいる。必ずだ」
一際強い春風が吹いて、辺りが桜色に染まる。澄んでいた空気が柔らかく崩れる。
「格好いいこと言いますね、蒼葉さん。ね、琥珀さん」
茶化すように眞白が笑う。ボクもつられて頬が緩んだ気がした。
「お前が言わせたんだろう。馬鹿にするな」
「してないです。本当に、感動しちゃいました」
ボクを挟んで、二人が笑い合う。二人の手を、精一杯に握り返す。ぎゅっとした優しい圧が、両手を包んだ。
また来年、同じ季節、三人で此処に来たい。誰も欠けずに、必ず。
身勝手な願いは、きっと叶うはずだ。
了
透明な虹、完結です。
活動報告にあとがきを投稿いたします。




