バカ
実家の玄関を開けたときの空気感は、今まで味わったことのない、重々しいものだった。
私は前回同様、靴を脱いでモモとともに廊下からリビングを覗いた。
リビングには両親と姉がいて、まるで葬式のような物々しい雰囲気を醸し出していた。
「ヒマリ......」
私を捉えた母が名前を呼んだ。
電話越しに感じた元気さはかけらもなく、まるで別人のようにさえ感じる。
「サトキなら部屋にいるよ」
姉が携帯を弄りながら言った。
一見興味のないような態度だが、明らかにいつもと違うことが分かった。
ショックを受けているというより、憤っているように思う。
私はそんな姉には触れず、階段横の廊下を進んだ。
キッチンとお風呂場を左手に、突き当たりにある扉の前に立った。
隙間なくピッタリと閉じられたその扉は、兄の心情を体現しているように感じる。
「サト兄、ヒマリだけど」
私は無機質な木製の扉に言葉を放った。
目の前の部屋からは何も聞こえず、ただの静寂が広がった。
私は足元にいるモモを見やり、もう一度兄の名前を呼んだ。
「何」
たった一言、とても小さな声が聞こえた。
「生きててよかった」
ヒマリも同じくたった一言だけ口にして、そのまま扉の前を離れた。
言いたいことがないわけではなかった。
怒鳴って罵って、抱いた感情を全て出すことも考えた。
しかし、兄のせいで仕事に影響の出た姉が行っただろう。
黙って慰めるような人ではない。
きっと家族の分も全部纏めて言ったのだ。
これ以上、兄を責める必要もないような気がした。
私はリビングの入り口で三人の顔を眺めてから、静かに実家を後にした。
私を止める人は誰もいなかった。
「あれでよかったの?」
私より少し先を歩くモモが、通行人と散歩をしていた犬を見ながら言った。
「うん。今は生きてるだけで十分」
「そう」
「もう少し落ち着いたら、そのときはバカのひとつでも言ってあげる」
「厳しいわね」
「アヤ姉よりは優しいでしょ」
「どうだか。もしかしたらヒマリ方がよっぽど酷いかもしれないわよ」
モモが笑い混じりにそう言ったので、私は少しだけそんな気がした。
でもやっぱり姉よりは優しいように感じて、こうあれるのも、おそらくはこの神様のおかげなんじゃないかと、そう勝手に思った。




