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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
訣別 ― 文字か、身か
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第84話 一字

 書は、ここまで来た。


 承和二年の三月、高野の山上である。庵の灯の下で、老いた手がこの書の最後の頁を書いている。始まりは、山だった。十九の春の山から書き起こして谷を下り、都に出て海を渡り、また山に帰ってくるまで書は八十四たび回った。回り終えていま、書かれていることと書いていることが同じ夜の中にある。物語が書き手に追いついたのである。


 追いつかれた書き手は六十二になった。庵の障子はまだ暗く、軒の氷柱の先から雫がひとつ、また落ちた。


 穀を断って、ふた月になる。水だけの日々は、思っていたより穏やかである。身体は日ごとに軽くなり、軽くなった分だけ耳と目が澄んでいく。死は怖ろしい客と違って、遠くから正直に歩いてくる。歩いてくる足音を、山の静けさが毎日少しずつ近くに聞かせてくれる。それだけのことである。嵐の夜の海で覚えた智慧は、老いてなお身体の中にいた。


 弟子たちへの遺誡は済んだ。


 山のこれからは定め終え、法の器は次の手に渡し終えた。支度と呼べるものは、もう何も残っていない。残ったのはこの書の最後の頁だけだった。


 頁を繰れば、みな居る。師も、友も、海も、あの人も。書とは不思議な器である。この身より先に、この身の生涯が器に納まって仕舞われていく。


  *


 三年前の秋、この山で万燈と万華の会を修した。


 燈明を幾万と点し、花を幾万と供えた。幾万の火影が夜の山肌を裾のほうまで淡く染めていた。供花の匂いが冷えた夜気に混じって堂の隅まで満ちていた。あの夜、誓いを立てた。


 虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん。


 虚空は、尽きない。尽きぬものを引き合いに出して、尽きぬと誓った。この身が終わっても願いは終わらぬ、と。


 あの誓いを立てた夜から、死は終わりの名と違うものになった。


 燈のひとつひとつが闇の中で揺れていた。幾万の小さな火を見ながら思ったのは、生涯に出会った灯のことだった。点し続けることだけが、人にできる祈りの形だった。願いが尽きないのなら、あの幾万の灯は消えても消えたことにならない。


  *


 数えるべきものは、数え終えている。それでも最後の頁の前で、筆は幾つかの名の上をもう一度通った。


 夢の師は東の国で汝の弟子に、と言った。あの夢を見たときには言葉の意味が分からなかった。いまは堂に若い声が満ちている。今朝の経でも、いちばん若いのが一節を先へ走った。隣の低い声が走った分だけゆっくり読んで、引き戻した。あの引き戻す声も、かつては引き戻されるほうだった。


 唐で別れた留学の若者たちは、順に帰った。長安で同じ卓に着いて、筆の穂の傷み方まで言い合った手がある。その手のいくつかはいまこの国で詔を書き、経を写し、子らに字を教えている。机を並べた日々は、そういう形でだけ残った。


 宗像から三日かけて歩いてきた在の僧が置いていった、村の百幾つの名。それが今朝も朝の経に乗った。百幾つの名は二十年あまり、一日も欠かさずに読まれてきた。読む声はおのれの声から弟子の声に代替わりして、それでも名は毎朝呼ばれ続けている。名は、呼ばれる限り、消えない。


 そして、もうひとつ。


 都の外れの寺の昼の灯は、まだ点いているという。


 風の便りが年にひとつ、それだけを運んでくれる。誰が点しているのかを、便りは言わない。言わなくてよい。どこの海の上でも聞いております、と言った人が、その言葉を三十余年、灯の形で守り続けてくれている。会わない、と決めたのは互いである。その約束を守ったまま、あちらの灯とこちらの朝の経は、同じ刻限にこの世のどこかで点り続けてきた。


 それだけで、足りた。足りるということを教わるのに、生涯かかった。


  *


 最後の頁に何を書くかは、決めてあった。決めてあったものを、老いた手はゆっくりと書いた。


 あの山で見たもの、山を下りてなお見続けたもの。私はそれを、ついに一度も書き終えられなかった。だが今、書き終えられぬことの意味だけは、書ける。


 十九の春、山の上で見たもの。谷川の光、朝の霧、世界の全部が経のように鳴っていたあの夜明け。あれを書こうとして、生涯書いてきた。詩に論に書に、伽藍に、堤に。どの形も、指だった。月とは、言えずじまいだった。八十四たび回ったこの書も、けっきょくあの朝の光の周りを回っただけだった。


 だが、それでよかったのだといまは書ける。


 書き終えられるものは、書き終えたときに終わる。書き終えられないものだけが、書き手が終わったあとも書かれ続ける。読んだ誰かの中であの山の朝がもう一度明けるなら、書き終えられなかったことこそが、この書のいちばんまことの頁になる。


 文字は、糟粕である。


 そう書いた男の、これが最後の糟である。良く、香ればよい。


  *


 それから、もうひとつの答えを書いた。


 生涯にふたつ、言葉にしなかったものがある。ひとつは、法の奥。ひとつは、あの人。ふたつは、同じ場所にあった。そこまでは、高野の仮堂の夜に分かっていた。ふたつと数えるのか、ひとつと数えるのか。それだけがこの最後の頁まで宿題として残っていた。


 いまなら、書ける。


 ひとつ、だった。


 初めから、ひとつだった。あの山の上で世界が鳴った朝と囲いの寺で言葉が尽きた夜は、同じひとつのものの、ふたつの顔だった。言葉の際の向こうで出会うものに、法と恋の区別はなかった。区別を立てていたのは、若かったおのれの言葉のほうだった。言葉にしなかったものは言葉にされないまま、ひとつの場所でひとつに溶けて、生涯この身の内で燃え続けた。あれが、火だった。師の言った火は、あれだった。


  *


 老いた手は書の最後に、一字を書いた。


 筆を下ろすまでが、長かった。下ろしてしまえば、あとは手が覚えていた。これまで書いたどの字よりゆっくり、最後の一点まで運んだ。運び終えて、指がそこで止まった。止まったのは、迷ったからではない。終わりに触れている時間を、指が少しだけ延ばしただけである。


 望。


 名は、書かなかった。一字だけである。


 遠くを見る、という字である。満ちる月の字でもある。誰かの名の、最初の一字でもある。この書を読む誰かは、最後の一字を望みと読むだろう。それで、よい。まことの読みは、ひとりの読み手にだけ届く形にしてある。もっとも、その読み手がこの書を読む日は、たぶん来ない。


 筆を、擱いた。


 置く、と違う。擱く、である。もう二度と、執らないという置き方である。五十年あまり身体の一部だった筆が、ただの筆に戻って文机の上に横たわった。筆よ、と思った。長かった。おまえは生涯、指を彫り続けてくれた。よく働いた。


 文机の灯を見た。油が昨夜より減っていない。


 泰範である。堂で眠っているあの言い切れない男が、このふた月、毎晩の油を黙って量り足していく。言われもせぬのに、減らないように。言わないことで支える男の、それが最後の言葉である。


  *


 ここから先は、もう、書かれない。


 庵を出た。


 夜明け前の、いちばん暗い刻限だった。雪の残る庭に立つと、息が白く立ちのぼってすぐに闇に溶けた。山は、眠っている。堂の若い声たちも、いまは眠っている。この山でいま起きているのは、おのれと東の空だけだった。


 東の空へ、向かって立った。


 都は、あの空の下にある。都の外れの、小さな寺も。


 生涯で一度だけと決めていたことを、した。


 声に、出したのである。


「汀」


 と、呼んだ。


 ふた月ぶりに使う声だった。喉が思ったより素直に開いた。声は庭の二三歩ほど先で消えた。それより遠くへは、行かなかった。


 誰にも聞こえない声で、誰にも届かない距離から、一度だけ。名は、呼ばれるたびに新しく立ち上がる。この一度で、生涯ぶんが立ち上がった。囲いの寺の夕暮れに、こちらから贈ったまま、一度も声にしなかった名である。贈った日から、その一語はあの人のものになった。人のものになった名を、生涯に一度だけ、借りた。


 返事は、要らない。


 生きていて、くだされば。


 海の上の水夫たちがそうやって互いの無事だけを祈ったように。返事を求めない祈りだけが海を越えるのだと、あの帆の上で教わった。この祈りも、高野とあの寺のあいだを越えていくはずだった。あの人の耳は、言われなかった言葉を聴く耳である。ならば、聞こえない声も聴くのだろう。どこの空の下でも聞いております、と。


  *


 空の際が、白みはじめていた。


 夜のいちばん終わりに昇って、朝に呑まれて消える星がある。若い日、七年の行の果てに開いた口へあの星の光が届いた。世界がひっくり返って、それからまっすぐになった。山で始まったものが、あの星で極まった。


 極まった朝の星が、終わりの朝にも昇ってくる。


 昇る星は、これから口に堕ちる星である。星にとって、昇ることと堕ちることはひと続きの運びだった。人の生き死にも、そうであるのかもしれない。書は終わった。書き手は書の外に出て、火は次の器へ移っていく。


 雪の庭で、老僧はまだ、東の空を見ている。


 明星が、そろそろ、昇る刻限である。

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