第83話 それぞれの道
弘仁十一年の春、空海は高野の山上に大きな図を描いていた。
縄と杭でである。中央に大塔の位置を定め、西に金堂、東に僧坊、周囲に諸堂の場所を打っていく。杭を打つ音が、谷を隔てた向こうから遅れて返ってきた。返ってくるまでの間で、山の幅が知れた。壇上の伽藍の縄張りだった。図面は幾度も引き直された。山の起伏が紙の上の線を平気で裏切るからである。裏切られるたび、空海は紙を置いて地面を歩き、歩いた足で線を引き直した。張られた縄が、春の山の風に低く鳴った。
ある朝、若い弟子が高い岩の上から普請場を見下ろして声を上げた。
「曼荼羅にございます」
そのとおりだった。
山をひとつ、曼荼羅にする。中央の大塔は大日、囲む諸堂は諸尊。縄は雨に濡れると縮み、朝ごとに張り直させた。乾けば、また伸びた。伸び縮みの分を見込んで打て、と男は言った。紙に描けば一幅で足りる図を、この男は七里四方の山で建てようとしていた。工人たちは伽藍を建てていると思っている。それでよかった。だが縄の一本一本は、筆の一画一画だった。地面に曼荼羅を描く男。それがこの男の、朝から晩までの姿だった。
若い弟子は岩の上からいつまでも見下ろしていた。見下ろす者には図が見え、中を歩く者には道しか見えない。どちらも、曼荼羅だった。
紙の曼荼羅は、絵である。
どれほど精しく描いても、絵は絵である。火の絵からは火が点かない。ならばどうするか。答えのひとつが、この山だった。山の曼荼羅は、中を人が歩ける。歩いて、坐って、火を焚ける。図の中に人が住める。絵と火の間の一線を紙の側から越えられないのなら、図のほうを人の住める大きさまで広げてしまえばよい。
生涯かけて出した答えが、山ひとつの大きさになった。
山を請うたときの上表には、こう書いた。深山の静寂の地を得て修禅の道場を建てたい、と。国のための祈りは、静けさの中でしか熟さない。都の寺は、都の音の中にある。音の中の祈りは浅瀬の水で、深い水は深い山にしか溜まらない。
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弘仁十二年には故郷の讃岐へ下った。
決壊を繰り返す満濃の池の修築が進まずにいた。国司が名を挙げて願い出て、朝廷がこの僧に命じた。土と水の仕事だった。空海は堤の形を弓なりに改め、水の力を受け流す線を地面に引き、人々の持ち場を組み直した。近郷の民が幾千と集まってきた。
泥は、朝は冷たく、昼は足の裏が焼けた。杭を打つ声は五つ数えて息を継ぐ。握り飯は一人にふたつ、日の高いうちと日の落ちる前に配られた。あの僧が来たなら成る、と言って集まる人々の頼み方は、頼むというより、待っていた者の言い方だった。訛りが、耳の底の訛りと同じだった。
浜で経を口移しに覚えた子どもが、髪に白いものの混じる歳で、この国の水を治めている。
絵はここでも実になろうとしていた。祈りと土方は、この男の中で分かれていなかった。朝は壇に上がって水の静まりを祈り、昼は泥の中に立って、運ぶ者と突き固める者を差配した。祈ることと掘ることを、分けるほうがおかしい。身体を離れた祈りは、絵である。
堤はその年のうちに成った。弓なりの土手が池の南を長く抱き、荒れていた水は、新しい堤の内で静かになった。落ち着いた水面に、故郷の空がそのまま映っていた。
幾日かして、初めての雨が来た。夜通し降った。夜明けに堤へ上がると、水は上がっていて、土手は動いていなかった。
帰りの道で、故郷の山々を遠くに見た。稜線はどれも見覚えのある形で、そのうちのひとつが、少しだけ他より高かった。山は、変わらずにあった。
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弘仁十三年の六月である。
高野の山は夏の初めの光の中にあり、伽藍の縄張りは幾つかの堂の形になりはじめていた。
昼下がり、麓から使いの僧が登ってきた。都からの報せを幾つか束ねて運んできた僧である。束の中に、その一報はあった。
比叡の座主、遷化。
六月四日。五十六。
使いの僧は伝えるだけ伝えて、次の報せの口上に移った。国の官寺のこと、都の法会のこと。空海は全部を聞き、全部に答え、使いを労って帰した。何も、変わらなかった。声も、手つきも、差配の順も。ただ、労って帰したあとで、使いの名を訊いていなかった。人の名を訊き忘れたことのない男だった。
使いが去ったあと、空海は堂を出てひとりで山の稜線を見ていた。
長いこと、見ていた。
北の空は夏の雲だった。あの雲の下のどこか遠くに、比叡がある。あの山の上で、あの人はもう息をしていない。そのことと目の前の夏の光が同じ世界のことだとは、しばらく思えなかった。
稜線を見ながら、あの人の最後の日々を思った。病の床でも定めの筆を離さなかったと、伝え聞いた。死の際まで、器を書いていた。あの人らしい、死に方だった。
言葉は、正確に届いた。遷化、五十六、六月四日。三つとも正確で、三つとも上を滑っていった。
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夕刻、空海は名の帳面を開いた。
朝の経で読み上げる、死者の名の帳面である。室戸の名も、船の名も、浜の名も、砂漠の名も、この帳面から毎朝読み上げられてきた。一度この帳面に入った名を、あとから消したことはない。こちらが生きているあいだ、毎朝そこで読まれる。
帳面の名は増え続けてきた。読み上げる朝の経も、年ごとに長くなった。長くなることを厭うたことはない。名の分だけ、生きて出会ったということだからである。
筆を執り、いちばん新しい頁にあの名を書いた。
内供奉とは書かなかった。座主とも書かなかった。ただ、あの二字の名を書いた。
書きながら、気づいた。
あの名を書くのは、二度目である。
一度目は、雪の高雄の歴名だった。壇に上がった者の名を記す、生者の帳面。あのとき、あの名を書く手は震えぬように力がこもっていた。あの人が壇に上がってくれた誇りと、これから始まる何かの予感とで、筆が熱かった。
いまは死者の帳面に同じ名を書いている。
十年かけて、あの名はこちらの手の中で帳面をひとつ移ったのだった。
あのとき力のこもっていた手には、いま、なんの力も入っていなかった。書き終えて、空海は筆を置き、その二字を見ていた。端正な字の人の名は、おのれの手で書いてもどこか端正だった。
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その夜、空海は報せの束をもう一度ひろげた。
束の中に、もうひとつのことが書いてあった。
あの人が生涯かけて願った大乗の戒壇は、死の七日後に勅許が下りた。
生きているうちには、下りなかった。南都と論を交え上表を重ね、願い続けて下りなかった。死んで、七日で、下りた。朝廷の議は、あの人の死の報に動いたのだという。
空海はその報せを二度読んだ。
あの人の願いは、あの人の死が、通した。
悔やみの形をした報せの中に、あの人の生涯の形がそのまま入っていた。地図を描いて死にまする、とあの人は言った。言ったとおりに、死んだ。そして地図は、死の向こうで国の道になった。
文字の人の、これが、勝ち方だった。
香りの人には香りの道があり、地図の人には地図の道があった。道は分かれたまま、どちらも頂へ着いたのである。頂で会うまで二度と会わない、とあの夜思った。あの人は、先に着いた。
では、こちらの勝ち方は何か。考えかけて、やめた。頂に着く前の者が、勝ち方を数えるものと違う。数える日は、いつか向こうから来る。
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翌朝から、朝の経にあの名が乗った。
読み上げると、あの名は存外、まるい音がした。泰範はその朝の経の間、頭を上げなかった。上げない背中に、掛ける言葉はなかった。あの男は、あの男の送り方で送っている。
その丸めた背の重さを、空海はただ隣で受け止めていた。
経を終えて堂を出るとき、文机の上の空いた場所がもう空いた場所と違うことに気づいた。六年、片づけなかった場所だった。次の文を待つ場所として空け続けて、待つ相手がいなくなった。空白はその朝から、ただの机の上になった。
悲報は、二度届くものであるらしかった。一度目は言葉で、二度目は、机の上の何もない板で。
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その年の秋、空海は山の上で、ひとりの夜に筆を執った。
書くあてがあったわけではない。ただ、筆を持って紙の前に座りたい夜だった。灯の下で、白い紙は白いままだった。白いままの紙を前に、五十路を目の前にした男は、来た道の長さを初めて書き物の長さとして思った。
いつか、書くのかもしれなかった。
あの七年を。誰にも語らなかった、あの道々を。書けるのか、書いてよいのか、それはまだ分からなかった。書くとしたらどこから始まるのかだけは、もう分かっていた。
筆はその夜、一字も書かずに置かれた。書かない夜も、筆の夜である。書かれるものが熟すのを、灯の下でただ待った。
山だ、と思った。
あの、十九の春の山からだ。あの山から始まったものだけが、この夜の白い紙の前まで、切れずに続いていた。




