第81話 最後の対話・二
夜半の堂に、問いだけが灯と共に残っていた。まことを書かれたか。空海は間を置かなかった。この問いにだけは間を置いてはならなかった。
「まことを、書きました」
と、空海は言った。
「一字も、欺いておりませぬ。文字を求めれば非である、と書いたのは、あなたを退けるためと違います。声は、途中で一度も掠れなかった。二年、口の中で幾度も繰り返した言葉の運びだった。あなたの求めるものが、書物の中でなくあなた自身の内にあるからです。あれは、私が言えるいちばん深いまことでした」
最澄は動かずに聞いていた。
「では」
と、しばらくして言った。
「あの返書も、伺ってよろしいか」
来るべきものが来た。空海は椀の水面を見た。見てから上げた。
「私の筆です」
隠さなかった。隠せばこの夜の全部が嘘になる。灯の芯がひとつ爆ぜて、堂の柱の影がわずかに揺れた。夜気が濡れ縁の下から忍び入り、二人の膝のあたりで冷えていた。
「存じておりました」
最澄の声は揺れなかった。
「一行目で分かり申した。あの字は四年、月にふたつ読んだ字にござる。見誤りようが、ない」
「二年、それを」
「知ったまま、置いて参った。問う相手がおりませなんだ。泰範に問えば、あれを追い詰める。貴僧に問えば、文になる。言い終えて、最澄は膝の前の板の目を見ていた。木の節がひとつ、そこにあった。しばらく、そこから動かなかった。文で問うてよいことと違う。ゆえに今宵まで、持って参った」
二年である。この人は二重の拒絶の意味を正確に読み解いたまま、山の政務を執り、学生の定めを書き、痛みの処理だけを上手にしながらこの問いを抱えて生きてきた。
知られていた。二年前のあの夜、字を似せなかったのはこの人になら分かると知っていたからである。分かってほしかったのかと問われれば、否と言い切れない。欺かないということの底にはいつも、分かってほしい相手の顔がある。
「なぜ、字を似せなかったのです」
と、最澄は問うた。
「似せれば、欺きになりますので」
「欺かずに、拒まれた」
最澄はそこで初めて、長いこと黙った。膝に置いた手の甲に、灯の色が動かずに乗っていた。
「それが、いちばん重うござった」
*
白湯が注ぎ直された。
注いだのは最澄だった。注がれる側に空海は初めて回った。回ってみて、四年の文通の間に注ぐ側の椀の傾きをこの人がどう見ていたのかが少しだけ分かった。
夜は深く、堂の外で風が楓を鳴らしていた。風がやむたびに、灯のまたたく音だけが堂に残った。最澄は椀を両手で包み、包んだままこの夜の底へ降りていった。
「ならば、伺いたい」
声は低かった。
「文字が糟粕なら、なぜ貴僧は、生涯、書き続けるのか」
灯が長く揺れた。
「詩を作られる。書を書かれる。論を著される。碑を刻まれる。国の文書を起こし、人の文を代わり、山を拓く合間にも筆を置かれたことがない。文字の頂に立つ人が、文字は糟粕と書く。糟粕と知るものを、なぜ作り続けるのか。五年、貴僧の書を読み返すたびに拙僧はそこで止まり申した。あの書のまことと貴僧の生涯が、拙僧の中でどうしてもひとつにならぬ」
この人だけが突ける問いだった。
文字の価値を生涯かけて信じ、文字で山を建て、文字でおのれの死後まで書こうとしている人だけがこの矛盾の急所を正確に突ける。五年かけて研がれた問いが、灯の向こうからまっすぐに来た。
空海はすぐに答えなかった。答えるまでに、白湯がひと呼吸ぶん冷えた。
答えを探していたのと違う。答えはずっとあった。この答えを受け取れる人がこの世にひとりしかいなくて、そのひとりがいま目の前にいた。
「糟粕だから、です」
と、空海は言った。
「酒の糟は、酒と違います。糟を食んでも、酔えませぬ。書を百年読んでも、月には届かぬ。それは、あの書に書いたとおりです。ですが」
椀から手を離した。
「糟の香りは、酒の在り処を指しまする」
最澄の目が動きを止めた。
「糟が香るのは、酒があったからです。香りを辿れば、蔵に着く。蔵に着けば、酒はそこにある。糟は酒と違うと知り抜いた上で、なお糟を作り続けるのは、香りのためです。私の書いたものは、みな糟粕です。詩も論も、碑も。ただ、良い糟は、良く香る。香りの立つ糟を作れば、誰かが香りを辿って蔵まで歩く」
袖の上の手が、一度だけ締まった。
「私は生涯、指を彫ってきました。月とは、言わずに」
言い終えて、空海はおのれの答えの中に師の指を見た。若い日、月と指の話を聞いた。唐の師は絵と火の話をした。筑紫ではそれを生きて見せた。拒絶の書では指し直しの形で書いた。そしていま、糟の香りの形になった。生涯、ひとつのことしか言っていないのだった。
*
沈黙は長かった。堂の外で、風がまた楓を渡っていった。
最澄は長く黙っていた。
それから笑いとも吐息ともつかぬものをひとつ、漏らした。
「香り、か」
椀の白湯をひとくち含んだ。
「五年の問いが、いま解け申した。貴僧は文字を捨てた人と違う。文字の役目を、文字より正確に量った人でござった。量った上で、量りの内で誰よりも書く。……なるほど。それなら、あの書と貴僧の生涯はひとつになる」
そして居住まいを正した。
「なれど、空海どの。拙僧の道の弁も、聞いていただこう」
呼び方がまた、戻っていた。
「そのとおりにござる。拙僧は、地図を描いて死にまする。地図は人を月へ運ばぬ。蔵まで歩くのは、けっきょくその者の足でござろう」
言いながら、指を組んだ。
「なれど、地図がなければ旅に出ることさえかなわぬ者が、この世の大半にござる。香りを嗅ぎ分ける鼻を持つ者は、百にひとり。残りの九十九は、道の名と里程と宿の場所を書いた紙がなければ、生涯、村を出ませぬ」
百にひとり。九十九。数を言うとき、この人の声はいつも落ち着く。
「拙僧は、その九十九のために描き申す。九十九人が旅に出れば、そのうちの幾人かはいつか、香りに気づく。気づいた者が、蔵へ行く。地図は月へ運ばぬが、月を見る場所までは、運び申す」
空海は頭を深く下げた。
下げながら思った。この人の言うことは正しい。おのれの言うことも正しい。香りで導く道と、地図で運ぶ道。下げた額のすぐ下に、板の木目があった。
額を上げずに、もうひとつ思った。この弁をこの人は五年、誰にも言わずに磨いてきた。おのれの描いた地図の値打ちを、拒まれた側から言い直す言葉を。人は拒まれた場所からおのれの生涯の弁を組み直さねばならぬときがある。この人はそれを、恨みでなく理で成し遂げた。
二人は同じ頂を見ていた。
道だけが、違った。
思えば、初めからそうだった。乙訓寺の夜、地図の人と足の人は互いの持たぬものに驚いた。驚きは敬意になり金蘭になり断絶になって、六年めのこの夜、静かな形に戻った。
別の斜面を登る者は、頂で会うまで二度と会わない。
*
灯の油が尽きかけていた。炎は低くなり、壁に並んだふたつの影が、輪郭を失いかけていた。
最澄が最後の問いを置いた。
「金蘭は、断てるものにございましょうか」
六年前、雪の高雄で歴名にあの名を書いた。金蘭帳、と人は呼んだ。断金の交わり、蘭のごとき香り。その言葉をいま、断たれた側が断った側に問うている。恨みの色はなかった。ただ量りの人が、もうひとつ量っておこうとしていた。
「金は、断てても」
と、空海は言った。締めた手は、いつのまにかゆるんでいた。
「香りは、残り申す」
最澄は目を閉じた。閉じたまま、二度うなずいた。金は断たれた。それはどちらも知っている。うなずいたのは、その先だった。断たれてなおこの六年、互いの内で香り続けてきたものがあること。会わずに、消えないこと。
*
朝が来た。
秋の朝の光が、門前の楓を透かしていた。夜を明かした目に、それは水のように染みた。良い朝だった。今日が何の日かを、天は勘定に入れない。
門前で、ふたりは向かい合った。比叡への輿と高野への輿が、別々の方角に待っていた。実恵が輿の脇に立ち、比叡の若い僧も同じ形で立っている。どちらの供も、目を伏せていた。朝の光の中で、この人の肩の線は、昨夜の灯の下より細かった。
「空海どの」
と、最澄は言った。
「貴僧の道で、頂へ」
「あなたの道で」
と、空海は言った。
誓いの言葉も再会の約束も、口にすれば嘘になる。
最澄の輿が北へ発った。
空海の輿が南へ発った。
どちらも振り返らなかった。
振り返らないことが、互いに贈れる最後のものだった。
輿の中で、空海は目を閉じた。北へ去る輿の音が聞こえなくなるまで、聞いていた。音が絶えたあともしばらく、聞いていた。あの声をひとつだけ聞き分けてきた耳は、絶えた音の続きをまだ拾おうとする。拾えないことを確かめてから、目を開けた。輿は南へ向かっていた。山が待っていた。




