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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第7章 金蘭 ― 相見える二人
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第70話 歴名

 種の箱が開いた。


 唐から運んで六年、大宰府と高雄の堂で眠り、半月前に乙訓の灯の下で一度だけ解かれた箱である。空海は弟子たちと共に蓋を上げ、絹の包みを解き、李真らの筆になる両部の大曼荼羅を堂の壁に掛けた。


 朱と緑と金が高雄の冬の光の中に立ち上がった。


 弟子たちが声を失った。誰かの息が、途中で止まった。この山の誰も、まだ見たことのない図である。長安の宮廷絵師が、種は写しより丁寧に描かねばならん、と言って描き上げた一図だった。種は、少しも色褪せていなかった。


 法具が壇に並んだ。五鈷杵。金剛鈴。灌頂の瓶。師の形見の念珠。青龍寺の東塔院で見たものと同じ配置が、高雄の堂の中に組み上がっていく。石は、ここで守る。そなたは、火を守れ。東の空の下にも青龍寺があるということじゃ。兄弟子の言葉が形になりはじめていた。


 壇が成った。


  *


 都はこの灌頂の噂で持ちきりだという。


 唐渡りの阿闍梨が、この国で初めて、両部の壇を開く。しかも受者の列には内供奉が並ぶ。無名の帰朝僧を三年、霧の中に置いた国が、いまや山ひとつの儀式に都じゅうの目と口を集めていた。空海はその声を聞き流して壇の支度だけを見た。


 十一月十五日、金剛界の灌頂。


 受者は四人だった。山の空気は冷え切って、堂の香の匂いが際立っていた。


 列の先に、美濃種人がいた。俗の男である。その次に、和気真綱と和気仲世が並んだ。この山寺を建て、いまも守っている家の兄弟である。代々、官に仕えている。この二人も俗のまま、浄衣を着ていた。列の末は、都でその名を知らぬ者のない僧だった。


 最澄は他の受者と同じ浄衣を着て同じ場所に座り、同じ作法で進んだ。内供奉の格式は、堂の外に置いてきていた。約束のとおり、法を求めるひとりの僧として、そこにいた。


 導きの手は、四人ともこちらである。


 覆面をした受者の手を取り、壇へ導き入れる。空海は一歩ごとに相手の足の運びを確かめた。段がある。右へ曲がる。止まる。言葉は遣わない。手は歩幅を聴くものだった。


 七年前、青龍寺の闇の中でこちらを導いた手は、乾いて熱かった。伝法の壇で自分が置いた手は濡れていた。いま人の手を握っているおのれの掌は、乾いていた。


 投花のとき、空海はひとりずつを壇の縁まで導き、花を持たせて、脇へ退いた。


 覆面の受者が三人、順に花を上げた。落ちる。堂の内の息が、そのたびにひとつ漏れた。花の行方を、空海は見なかった。主宰の目は壇の全部を見る。香の層。読経の高さ。灯の揺れ。花の落ち先は、受者と仏の間のことである。主宰は、その間に立たない。


 次が、最澄だった。


 覆面の内供奉が一歩ずつ進んだ。あの端正な人が、目を封じられ、手を引かれて歩く。三年の文通と一夜の対話と生涯の学を、覆いの布の内側に置いて。


 花が上がった。


 落ちた。


 空海は壇の全部を見ていた。灯が、どよめきの息で一斉に傾いだ。


  *


 十二月十四日、胎蔵の灌頂。


 雪が高雄の山を白くしていた。夜半から降りはじめた雪で、参道は夜の明けきらぬうちから幾度も掃き直された。この日の受者は、百四十五人である。比叡の僧たち。高雄の弟子たち。大僧が二十二人。沙弥が三十七人。在俗の男が四十一人。童子が四十五人。位の高い者も無位の者もいた。経を諳んじる者の隣に、字の読めぬ者が並んでいた。


 あの雨上がりの朝、筑紫の門前で教わったことが、雪の山寺で、百四十五人の姿をとっていた。


 この日も、導きも灌ぎも、空海ひとりの手である。


 覆面の受者をひとりずつ導き、花を持たせ、壇へ入れる。老いた手があり、若い手があり、骨の浮いた手があり、鍬だこの残る手があった。子どもの小さな手もあった。手を取るたびに、その人の生きてきた道が掌に読めた。この掌も、人を蔵っていった。


 列の中に、腰の曲がった俗の老人がいた。和気の家に長く仕えた者だという。導きの手を取ると、老人の手は激しく震えていて、壇の手前で一度止まった。空海は待った。急かさず引かず、ただ手を貸したまま待った。やがて震えが収まり、老人は自分の足で段を上がった。上がりきったとき、覆面の下で泣いているのが、手から伝わった。


 老人の手が離れたあとも、掌に震えの残りがあった。指を握り直した。


 瓶を傾けると、水は剃った頭では音を立てずに流れ、髪のある頭では小さく弾けた。童子の頭では、その音が高かった。


 日が暮れる頃、最後のひとりが壇を降りた。堂に入ったときから冷えていた指が、もう何も感じなくなっていた。


 雪はまだ降っていた。堂の灯が、雪明かりの中で、いつもより明るく見えた。境内のどこかで、枝の雪が落ちる音がした。


  *


 儀式の終わった夜、空海は灯の下で、歴名を書いた。


 灌頂の受者の名を、主宰の筆で記す一巻である。壇に上がった者を、上がった日付とともに書き留める。教えの相続の、公の証だった。天竺から唐へ、唐からこの国へ。火の渡った道のりに、新しい行が足される。


 灯の芯を立て直して墨を新しく磨った。


 この日の頭は、大僧の一番である。筆が、その名の前で止まった。


 最澄。


 二つの字を書いた。


 あの字の人の名である。十一月にも、同じ二字を書いた。二度目のほうが、長かった。


 青龍寺の夜を思った。あの夏、師の筆も、あちらの巻のどこかに、空海の二字を書いたはずである。二十年待ち続けた人が、ようやく見つけた名を書いた夜。あの夜、師は何を思って書いたのか。問う機会は、もうない。


 あの夜、自分のほうが先に言っていた。重さは、まだ分かりません。受けるだけで、手いっぱいです、と。


 師はそのあとで言った。重さはな、渡し終えた者と、渡す相手を探す者にしか、分からぬ。


 返事は、しなかった。


 渡しはじめた者にも、その重さの、最初のひと掬いは分かるのだった。名をひとつ書くたびに、筆が少しずつ重くなる。この重さを、師は五十年、担いでいた。


 筆は先へ進んだ。比叡の大僧の、三番目。泰範と書いた。


 今日この手が取った手の中に、その名の手があった。どれだったかは、思い出せなかった。


 大僧が尽きて、沙弥の名に移った。在俗の男の名。童子たちの名。高雄の弟子の名も、あの老いた受者の名も、それぞれの行にあった。


 名の帳面を十年抱えてきた男が、公の巻に、生きている名を並べていく。死者の名は迷わぬように書いてきた。この名たちは、違う。忘れられぬように書く。百年ののち千年ののち、誰かがこの巻の紐を解いたとき、この雪の日に壇を上がった人々がひとり残らずそこにいるように。


 文机の脇に、あの名の帳面があった。


 死者の帳面と、生者の歴名が、同じ灯の下に並んでいた。片方には海に沈んだ名と、砂漠に消えた名と、師の名がある。もう片方では、今日壇を上がった名が増えていく。


 灯の油が尽きるまで、空海は百四十五人の名を書いた。


  *


 翌日、最澄が礼を言いに来た。


 堂の前の雪は掃き清められていた。最澄は昨日の受者の顔から、いつもの顔に戻っていた。戻り切らぬ部分が、目の奥にまだ少し残っていた。


「昨日の壇のことは、言葉にできませぬ」


 と、最澄は言った。


「言葉にできぬことが、これほど確かにあるとは。拙僧は学んで参ったつもりのことを、初めて、知り申した」


 それから、居住まいを正した。


「師と、お呼びしたい」


 空海は先に手を上げて、それを止めた。


「金蘭の、ままで」


 最澄が、目を上げた。


「あなたには、天台の祖師たちがおられる。その系譜の末に、私の名を入れてはなりません。私は、壇への導き手です。それに」


 空海は少し笑った。


「文の宛名が、変わるのは惜しい。あの宛名で頂く文を、私はなによりの楽しみにしております」


 最澄はしばらく黙っていた。それから深く頭を下げた。


「かたじけない」


  *


 雪の晴れ間に、二人で堂に入り、曼荼羅の前に並んだ。


 胎蔵の大曼荼羅である。中台の仏から幾重の環が広がっていく、世界の見取り図。最澄は長いこと、黙って見上げていた。地図を描く人が、この世でもっとも大きな地図の前に立っていた。


「これを、この国の隅々まで」


 と、最澄が言った。


「届けとうござるな」


「届けましょう」


 空海は言った。あなたの地図と、私の足で。そう言いかけて、やめた。言葉にしなくても届いている気がした。戸口から入る雪の光が、雲の動くたびに、曼荼羅の金泥を静かに明滅させていた。


  *


 年が明けた。


 比叡から文が届いた。いつもの字である。用向きは、ひとつだった。


 弟子をひとり、そちらへ預けたい、と。


 名は、泰範。あの雪の日、比叡の大僧の三番目に書いた名である。文には、こうあった。拙僧が壇の内で触れたものを、この弟子には、根から学ばせねばならぬ。わが山でいちばんの器を、あなたの壇の側に置きたい、と。


 空海は文を巻き納めた。歴名を十二月まで繰って、泰範の名に掌を当てた。

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