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第十章 夏へ続く空(中編)


 教室の扉を開けた瞬間、空気が少しだけ止まった。


 何人かの生徒が遥へ気づき、小さく目を見開く。


「上乃園さん……!」


「戻ってきたんだ!」


 教室には驚きと安堵が入り混じった声が広がった。


 遥は少しだけ肩をすくめる。


 胸の奥がきゅっと縮むような感覚と、同時に逃げ出したくなるようなざわめきが広がる。


 視線が集まることに、まだ慣れない。


 背中にじんわりと汗がにじむのを感じながら、足がほんの少しだけ重くなる。


 すると、すぐ隣から穏やかな声が聞こえた。


「大丈夫。ちゃんと来られたね、えらいよ。」


 葵だった。


 その一言だけで、不思議と呼吸が整う。


 浅くなっていた息が、ゆっくりと胸の奥まで届く。


 遥は小さく頷き、自分の席へ向かった。


     ◇


 ホームルームが始まる。


 担任は教壇から教室を見回し、優しく微笑んだ。


「上乃園さん、神原さん。」


「戻ってきてくれて、本当にうれしいです。」


 教室中が静かに拍手を送る。


 遥は少し照れながら頭を下げた。


 頬がじんわりと熱くなるのを感じる。


 胸の奥が温かくなる。


 それはじわじわと広がり、固くなっていた心を少しずつほどいていくようだった。


 事故以来、初めて感じる安心だった。


     ◇


 一時間目の授業。


 黒板へ書かれる文字をノートへ写す。


 最初は手が震えていた。


 ペン先が紙に触れるたび、かすかに震えが伝わり、文字が少し歪む。


 心臓の鼓動が指先まで響いているようだった。


 けれど、一ページ書き終えた頃には、その震えも少しずつ落ち着いていた。


 呼吸のリズムが整い、指先の力も自然に戻ってくる。


 その様子を見ていた葵が、小さく囁く。


「ちゃんと書けてる。すごいよ、遥。」


 遥は少しだけ顔を上げる。


「……ほんと?」


「うん。頑張ってる。」


 その言葉に、胸がふわりと軽くなる。


 遥は少しだけ唇を尖らせて、ちらりと葵を見上げる。


 何か言いたげに視線を揺らし、すぐにノートへ目を落とした。


 葵はその仕草に気づき、くすっと小さく笑う。


 休み時間。


 何人ものクラスメイトが声を掛けに来る。


「無理しないでね。」


「また一緒に勉強しよう。」


「待ってたよ。」


 その言葉一つ一つが、遥の心へゆっくり染み込んでいく。


 胸の奥に残っていた冷たい部分が、少しずつ溶けていくような感覚だった。


     ◇


 昼休み。


 遥はまだ食堂へ行く勇気が出ず、教室で弁当を広げていた。


 周囲のざわめきが少し遠くに感じられ、静かな場所に身を置いているような安心感があった。


「ここ、いい?」


 葵が向かいへ座る。


「もちろん。」


 二人は静かに食べ始める。


 箸を動かす音や、窓の外から聞こえる風の音がやけに鮮明に感じられる。


 以前のように賑やかな会話ではない。


 それでも、沈黙は苦ではなかった。


 むしろ、その静けさが心を落ち着かせてくれる。


「今日はどう?」


 葵が尋ねる。


 遥は少し考えてから答える。


 胸の内側を探るように、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「……朝よりは、平気。」


「そっか。ちゃんと乗り越えてるね、えらい。」


「うん。」


 その短い会話だけで、お互いに十分だった。


 言葉にしなくても伝わる安心が、そこにあった。


 遥は少しだけ身を乗り出し、葵の袖をそっとつまむ。


 視線を合わせると、ほんの少しだけ頬を染めて、何も言わずに目を逸らした。


 葵は周囲をちらりと見て、苦笑する。


「……帰りにね。」


 遥は小さく頷いた。


     ◇


 放課後。


 二人は久しぶりに文芸部の部室へ向かった。


 扉を開けると、部長が笑顔で迎える。


「おかえり。」


 その一言に、遥の目が少し潤む。


 胸の奥がじんと熱くなり、視界がわずかに揺れる。


「ただいま……です。」


 声が少しだけ震えるのを、自分でも感じていた。


 白石も嬉しそうに駆け寄った。


「上乃園先輩! 神原先輩!」


「部室、ずっと待ってました!」


 部室は事故前と何も変わっていなかった。


 本棚。


 窓際の机。


 読みかけの文芸誌。


 その一つ一つが、懐かしさと安心を同時に呼び起こす。


 胸の奥にあった緊張が、ゆっくりとほどけていく。


 葵がそっと言う。


「ここまで来られたね。ほんとにすごい。」


 遥は少しだけ笑う。


「……うん。」


 いつもの景色が、二人の帰りを静かに待っていてくれたようだった。


     ◇


「新しい部誌のテーマ、考えてるんだ。」


 部長が原稿用紙を机へ並べる。


「今年のテーマは――『再会』。」


 その言葉に、遥と葵は思わず顔を見合わせた。


 一瞬、胸がきゅっと締めつけられる。


 けれど同時に、どこか優しく包まれるような感覚もあった。


 葵は優しく笑う。


「ぴったりだね。」


 遥も小さく笑った。


 唇の端が自然に上がるのを感じる。


「……うん。」


 部長は二人の表情を見て、安心したように頷いた。


「締め切りはまだ先だから。」


「焦らなくていい。」


「書きたい時に、書きたいものを書いて。」


     ◇


 帰り道。


 夕日が街を淡く染めていた。


 柔らかな光が頬に触れ、ほんのりと温かい。


 二人はゆっくりと歩く。


 以前より歩幅はそろっている。


 足音が自然と重なり、そのリズムが心地よい。


 事故の日以来初めて、遥の方から口を開いた。


「今日ね。」


 少しだけ胸が高鳴る。


「うん。」


「学校、思ってたより怖くなかった。」


 言葉にした瞬間、胸の奥にあった重さが少し軽くなる。


 葵は嬉しそうに笑う。


「それは遥が頑張ったからだよ。本当にえらい。」


 遥は首を横に振る。


 頬が少し熱くなる。


「違う。」


「葵がいてくれたから。」


 少し照れくさそうに笑いながら続ける。


 胸の奥にある感謝が、じんわりと広がる。


「でも……明日は今日より少しだけ、自分で頑張ってみる。」


 その言葉を口にすると、不思議と足取りが軽くなる。


 その言葉に、葵は目を細めた。


「その調子。ちゃんと前に進んでる。」


 遥は少しだけ立ち止まり、葵を見上げる。


「ねえ。」


「ん?」


 遥は何も言わず、じっと葵を見つめる。


 ほんの少しだけ唇を結び、期待するように視線を揺らした。


 葵は一瞬だけ驚いたあと、優しく笑った。


 夕焼けに包まれた帰り道。


 人通りの少ない角で、葵はそっと遥の頬に触れる。


 指先が触れた瞬間、遥の肩がわずかに震える。


 そのまま顔を近づけ、そっと唇を重ねた。


 最初は触れるだけの、やわらかなキス。


 遥は目を閉じ、小さく息を吸い込む。


 離れそうになったその瞬間、遥がほんの少しだけ前へ踏み出した。


 もう一度、今度は少しだけ長く。


 唇が重なり、ぬくもりがじんわりと広がっていく。


 夕焼けの光の中で、時間がゆっくりとほどけていくようだった。


 遥の指が、そっと葵の袖を握る。


 そのまま、ほんの少しだけ名残を惜しむように、静かに唇を離した。


 遥は目を開け、頬を赤く染めながら小さく笑う。


 何も言わずに、もう一度だけ袖をぎゅっと握った。


 夕焼けの中を並んで歩く二人の背中は、少しずつ以前の日常を取り戻し始めていた。


 まだ六月の終わり。


 夏はこれからゆっくりと近づいてくる。


 焦る必要はない。


 少しずつ、確かめるように進めばいい。


 それでも二人は、同じ歩幅で未来へ向かって歩き続ける。


                (第十章・後編へ続く)

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