第十章 夏へ続く空(前編)
七月。
梅雨明けを間近に控えた朝。
窓の外では、蝉が今年初めて大きく鳴いていた。
遥は制服を前に立ち尽くしていた。
事故以来、袖を通していない制服。
ハンガーに掛けられたままの紺色のブレザーは、ほんの少しだけ季節に取り残されているように見えた。
「……。」
指先でそっと袖に触れる。
胸の奥が小さく痛んだ。
学校。
教室。
文芸部。
そして、事故の日の記憶。
制服を見るだけで、様々な思いが胸をよぎる。
その時だった。
スマートフォンが小さく震える。
画面には、葵からのメッセージ。
『家の前に着いたよ。』
その一文を見た瞬間、不思議と呼吸が落ち着いた。
遥は小さく息を吸い、制服へ袖を通す。
鏡の前に立つ。
三か月ぶりの制服姿。
どこか少しだけ、大人になった自分が映っていた。
◇
玄関を開けると、葵がいつもの笑顔で立っていた。
「おはよう、遥。」
「……あ、うん……おはよう。」
まだ松葉杖は手放せない。
それでも葵の笑顔は、事故前と変わらなかった。
「制服、似合ってる。」
少し照れくさそうに、でも嬉しそうに笑う葵。
遥は一瞬視線を逸らし、少しだけ頬を赤くする。
「……ありがとう。」
その声はまだ小さい。
けれど、以前より少しだけ力が戻っていた。
「行こうか。」
葵が手を差し出す。
遥はその手を見つめる。
ほんの一瞬だけ迷ってから、そっと握った。
以前のように強くしがみつくのではない。
確かめるように、優しく。
二人は並んで歩き始めた。
◇
通学路。
見慣れた景色が広がる。
コンビニ。
公園。
駅前の商店街。
肉まん屋の前を通ると、遥は少しだけ足を止めた。
葵もそれに気づいて、ゆっくりと立ち止まる。
「……まだ、怖い?」
少しだけ声を落として、様子をうかがうように尋ねる。
遥は小さく頷く。
「……うん、少しだけ。」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「でも……。」
葵は柔らかく微笑んだ。
「今日は、ここまで来れたし……通れた。」
遥も商店街を見つめる。
以前なら立ち止まり、涙を流していた場所。
今日は立ち止まっただけだった。
「……うん。」
その小さな返事を聞き、葵はそれ以上何も言わず、そっと歩き出す。
遥もその隣を歩いた。
◇
学校が見えてきた。
校門の向こうでは、生徒たちが次々と登校している。
笑い声。
挨拶。
朝の賑わい。
その光景を見た途端、遥の足が止まった。
呼吸が浅くなる。
鼓動が速くなる。
葵は何も急かさなかった。
「……遥。」
静かに、優しく名前を呼ぶ。
遥は震える手を見つめた。
「……怖い。」
「うん……怖いよね。」
すぐに否定せず、受け止めるように。
「また……苦しくなったら。」
「うん。」
「また……動けなくなったら……。」
言葉が途切れがちになる。
葵はそっと遥の手を包み込む。
「その時は……一緒に帰ろう。」
少し間を置いて、穏やかに言う。
遥は顔を上げる。
「無理して頑張らなくていい。」
「今日は……教室へ行くこと、それだけでいい。」
「それだけで、十分だから。」
その言葉に、遥の肩から少しだけ力が抜けた。
「……うん。」
小さく、でも確かに頷く。
◇
二人は校門をくぐる。
その瞬間、すれ違った生徒が目を丸くした。
「あっ……!」
「神原さん……!」
「上乃園さんも……!」
驚きと喜びが混ざった声が、あちこちから上がる。
「戻ってきたんだ……!」
「よかった……ほんとに!」
笑顔が広がっていく。
その温かい空気に包まれ、遥は少しだけ戸惑いながらも、小さく頭を下げた。
◇
昇降口。
靴を履き替えようとした時だった。
「上乃園先輩!」
弾むような元気な声が響く。
振り向くと、白石が駆け寄ってきた。
目には涙が浮かんでいる。
「本当に……その……。」
言葉が詰まりながらも、
「本当によかったです……!」
ようやく絞り出すように言った。
遥は少し驚きながらも、穏やかに微笑んだ。
「……心配かけて、ごめんね。」
白石は慌てて何度も首を横に振る。
「い、いえ……謝らないでください。」
「帰ってきてくれただけで……それだけで十分です。」
その言葉に、遥の目にも涙が滲む。
葵は少し離れた場所から、その光景を静かに見守っていた。
(ここからは。)
(遥自身が歩く時間。)
もちろん、自分は隣にいる。
でも、一歩を踏み出すのは遥自身だ。
その一歩を信じて、葵は優しく微笑んだ。
夏を運ぶ風が校舎を吹き抜ける。
止まっていた日常は、少しずつ、しかし確かに動き始めていた。
(第十章・中編へ続く)




