第九章 君を取り戻す春(後編)
六月も終わりに近づいていた。
葵は毎朝、遥の家を訪れる。
それはいつの間にか二人の日課になっていた。
チャイムが鳴る。
玄関が開く。
そして遥は、何も言わず葵のそばへ歩いてくる。
制服の袖をつまみ、安心したように小さく息を吐く。
その指先はわずかに震えていて、葵はその震えに触れるたび、まるで冷たい水の中からようやく引き上げられたように、遥が自分に触れることでやっと体温を取り戻しているのだと感じていた。
その姿を見るたび、葵は胸が締めつけられた。
胸の奥に、細い針が何本も刺さるような痛みが走る。自分がここにいることで救われているのだと分かる一方で、その依存の重さが、柔らかくも確かな重力となって心にのしかかってくる。
◇
ある朝。
葵が少しだけ遅れた。
病院で定期検査があり、約束の時間より三十分ほど遅くなってしまったのだ。
スマートフォンには通知が並んでいた。
『大丈夫?』
『何かあった?』
『事故じゃないよね?』
『お願い、返事して』
『葵……』
最後のメッセージには、それだけしか書かれていなかった。
その短い言葉の奥に、言葉にならない恐怖がぎゅっと押し込められているのが伝わってきて、葵の喉がひりつく。
葵は慌てて返信する。
『ごめんね。病院の検査が長引いただけ。今向かってるよ。』
送信した直後、電話が鳴った。
「遥?」
『……葵。』
震えた声だった。
その声は、細い糸のように頼りなく、少しでも強く引けば切れてしまいそうだった。
『本当に……大丈夫?』
「うん、大丈夫。」
『痛いところは?』
「ないよ。」
『本当に?』
「本当。」
『ちゃんと歩けてる?』
「歩けてるよ。」
『ふらついてない?』
「大丈夫。」
少しの沈黙。
電話の向こうで、息を飲む音がした。
『……無理しないで。』
『途中で具合悪くなったら、すぐ帰ってきて。』
『連絡、ちゃんとして。』
言葉が重なるように続く。
それは確認というより、必死に繋ぎ止めようとする祈りのようだった。
「うん、ちゃんと連絡する。」
『……絶対?』
「絶対。」
電話の向こうで、小さく息をつく音が聞こえた。
それは、長く水中に潜っていた人がようやく顔を出して空気を吸い込むような、切実な安堵の音だった。
『……よかった。』
その一言に、どれだけ不安だったのかがすべて表れていた。
葵の胸の奥にも、じんわりと熱が広がる。守りたいという気持ちと、守らなければ壊れてしまうかもしれないという怖さが、同時に脈打っていた。
◇
家へ着くと、玄関の扉はすでに開いていた。
遥は靴も履かないまま立っている。
葵の姿を見つけると、小走りで近寄った。
「葵……!」
そのまま勢いよく抱きつく。
ぶつかるようなその抱擁は、まるで崖から落ちそうになって必死にしがみつくような力だった。
「ごめん、ごめんね。」
葵は優しく抱き返す。
細い背中に触れると、心臓の鼓動が早く、乱れているのが伝わってくる。
「心配かけちゃった。」
遥は首を横に振る。
「違う……。」
「私……。」
「また会えないんじゃないかって思った。」
その言葉は、喉の奥から無理やり引き出されたようにかすれていた。
肩が小刻みに震えている。
その震えは寒さではなく、内側から湧き上がる恐怖が体を揺らしているようだった。
「すごく……怖かった。」
葵は何も言わず、その震えが落ち着くまで背中をさすり続けた。
そして、そっと遥の顔を上げさせると、安心させるように軽く唇を重ねた。
ほんの一瞬の、触れるだけのキスだった。
遥の瞳が大きく揺れる。
けれど次の瞬間、その震えが少しだけ和らいだのを、葵は確かに感じた。
手のひらに伝わる体温が、少しずつ安定していくのを感じながら、自分の存在がこの子の世界の支えになっていることを、改めて実感する。
◇
その日の午後。
葵は遥を近くの公園まで連れ出した。
ベンチへ並んで座る。
子どもたちの笑い声が響き、風が木々を揺らしている。
遥は黙ったまま葵の肩へ頭を預けていた。
その重みは軽いはずなのに、葵にはどこか切実で、離せば崩れてしまいそうな重さに感じられた。
しばらくして、小さく呟く。
「ねぇ。」
「なに?」
「今日、遅かったでしょ。」
「うん。」
「その間……。」
遥は俯いた。
視線が地面に落ちると同時に、呼吸が浅くなるのを、葵はすぐ隣で感じ取る。
「何も考えられなくなった。」
「頭が真っ白になって。」
「息も苦しくなって。」
胸を押さえるように手を握る。
「葵がいなくなったって、それしか考えられなかった。」
その言葉は、まるで暗い水の中に沈んでいく感覚をそのまま言葉にしたようだった。
葵は静かに話を聞いていた。
その一つ一つを受け止めながら、自分がいない時間がどれほど彼女にとって恐怖なのかを、痛いほど理解する。
「私……。」
遥は震える声で続ける。
「葵がいないと。」
「何もできない。」
「ご飯も。」
「眠ることも。」
「外へ出ることも。」
「怖い。」
その「怖い」という言葉は、ただの感情ではなく、体の奥に巣食う冷たい塊のように重く響いた。
「学校に行くって聞くだけで……。」
遥はさらに声を落とす。
「また、いなくなる時間が来るって思って。」
「ずっと、時計ばかり見てしまうの。」
「今どこにいるのか、何してるのか、考え続けて……。」
指先がぎゅっと強く握られる。
「何かあったらどうしようって、止まらなくなる。」
葵は遥の手をそっと握る。
その手は冷たく、指先に力が入りすぎている。
「ありがとう。」
「……え?」
「そんなに頼ってくれて。」
遥は驚いたように顔を上げた。
その瞳には、まだ不安が揺れている。
「でもね。」
葵は優しく微笑む。
「私は遥を置いていかない。」
「学校に行っても、ちゃんと戻ってくる。」
「途中でも、ちゃんと連絡する。」
「だから、少しずつでいい。」
「今度は、一緒に歩こう。」
遥の目から涙がこぼれる。
それを見て、葵は胸の奥がほどけていくのを感じた。
「……うん。」
それでも、その手を握る力はまだ強かった。
離したらまた暗闇に落ちてしまうのではないかという不安が、指先に残っているのが伝わってくる。
◇
翌週。
葵は文芸部の部長と白石を訪ねた。
「上乃園先輩は……。」
白石は心配そうな表情を浮かべる。
「まだ学校は難しいです。」
葵は静かに頷いた。
その言葉を口にするたび、胸の奥に小さな棘が刺さる。
「でも、少しずつ前へ進いてる。」
「焦らせたくないんだ。」
部長も穏やかに頷く。
「もちろん。」
「文芸部は、いつでも帰ってこられる場所だから。」
白石も笑顔になる。
「私たち、待っています。」
その言葉を聞いた葵は、小さく頭を下げた。
その「待っている」という言葉が、遥にとっていつか安心に変わる日を願いながら。
◇
夕方。
遥の部屋。
本棚の前で立ち止まった葵は、一冊の小説を手に取った。
「読んでみる?」
遥は少し迷う様子を見せる。
ページを開くことへの恐れがあるのだと、葵には分かった。
「……読めるかな。」
「読めなくてもいいよ。」
「私が隣にいるから。」
二人でベッドへ座る。
葵が本を開く。
遥も隣からページを覗き込む。
一行。
二行。
三行。
文字が視界に入るたび、最初は意味を持たない記号のように感じているのだろうと、葵はその様子から察する。
けれど、自分の体温がすぐ隣にあることで、その記号が少しずつ言葉へと形を取り戻していくのを、葵は確かに感じていた。
読み終えると、遥は小さく息を吐いた。
「読めた……。」
葵は嬉しそうに笑う。
「すごいじゃん。」
遥も、ほんの少しだけ笑った。
まだ弱々しい笑顔だった。
それでも、それは確かに遥自身の笑顔だったと、葵は思った。
◇
夜。
帰る時間になる。
遥は今日も葵の袖をつかむ。
その指先には、まだ離れることへの恐怖が残っているのが伝わってくる。
「また……明日も来る?」
「うん。」
「絶対?」
「絶対。」
「学校、終わったらすぐ来る?」
「うん、すぐ来る。」
「途中で連絡、くれる?」
「ちゃんとするよ。」
葵は遥の小指へ、自分の小指を絡めた。
「約束。」
遥もゆっくりと指を絡め返す。
その動きは慎重で、壊れやすいものを扱うようだった。
「……約束。」
その表情には、まだ不安が残っている。
胸の奥にある暗い影は完全には消えていない。
それでも昨日より少しだけ穏やかになっていると、葵には感じられた。
ふと、遥が葵の袖を引いた。
「ねぇ……。」
「なに?」
遥は少しだけ視線を逸らし、それから意を決したように葵を見上げる。
「……キス、して。」
その声は小さく、けれど確かに求める響きを持っていた。
不安を押し込めるように、指先がぎゅっと強くなる。
葵は一瞬だけ驚いたが、すぐに柔らかく微笑む。
「うん。」
そっと顔を近づける。
今度は、先ほどよりも少しだけ長く、優しく唇を重ねた。
遥は目を閉じ、その温もりに身を委ねる。
離れたあとも、遥はしばらくそのまま動かなかった。
やがて小さく息を吐き、ほんの少しだけ安心したように微笑む。
「……これで、大丈夫。」
その言葉に、葵は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
部屋を出た葵は、夕焼けに染まる空を見上げる。
胸の奥にある重さは消えない。
けれど、その重さは今、確かな意味を持っている。
(あと少し。)
(あと少しで、遥は自分の足で歩ける。)
そう信じて歩き出す。
――第九章 君を取り戻す春 完




