第九章 君を取り戻す春(中編)
翌朝。
遥は目を覚ますと、真っ先に枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。
画面を見る。
まだ午前七時。
葵が来る約束の時間までは、あと三時間もあった。
その三時間が、遥には一日のように長く感じられる。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、静かな部屋の空気を淡く照らしている。遠くで小鳥のさえずりがかすかに聞こえ、穏やかなはずの朝が、どこか現実味を欠いていた。
胸の奥がざわつく。鼓動がやけに速く、耳の奥で響く。呼吸も浅く、うまく空気が入ってこない。喉が詰まるようで苦しい。
何度も時計を見る。
何度も玄関の方へ視線を向ける。
視界が落ち着かない。揺れる。ぐらぐらする。
(本当に来てくれるよね……?)
(もし来なかったら……?)
その考えが浮かぶたびに、胸がぎゅっと締めつけられる。
ようやくチャイムが鳴った時には、遥は昨日と同じように部屋を飛び出していた。
静まり返っていた家の中に、チャイムの音が鋭く響く。
心臓が跳ねる。足がもつれそうになるのも構わず、ただ玄関へ向かう。
◇
「おはよう。」
葵が笑う。
その瞬間、遥は安心したように小さく息を吐いた。
玄関の外からは、柔らかな朝の風が流れ込み、ほんのりとした暖かさを運んでくる。
はあ、と、やっと吐けた。肺の奥に溜まっていた空気が一気に抜ける。肩の力が抜け、膝が少しだけ震えた。
「……来てくれた。」
「約束したでしょ。」
葵がそう言うと、遥は何も言わずにそっと葵の腕へ抱きついた。
昨日よりも自然に。
昨日よりも強く。
指先に力が入り、離したら消えてしまうのではないかという恐怖が胸をよぎる。
葵は少しだけ驚きながらも、優しく遥の頭を撫でる。
その手の温もりが、現実を確かに感じさせる。
「今日も一緒にいよう。」
遥は小さく頷いた。
◇
昼食の時間になった。
遥の母が食卓へ料理を並べる。
窓の外では風に揺れる木々の葉がさらさらと音を立て、穏やかな昼の気配が広がっている。
「遥、ご飯できたわよ。」
「……。」
遥は動かなかった。
食卓の匂いが鼻に届くのに、喉が詰まったように感じる。息が浅く、箸を持つことすら怖い。
葵が隣で微笑む。
「一緒に食べよう。」
その一言で、遥はようやく椅子へ座る。
胸の奥の緊張が少しだけほどける。呼吸もわずかに落ち着く。
母はその様子を静かに見つめていた。
事故以来、食事を残すことが多かった遥が、今日は少しずつ箸を動かしている。
それは葵が隣にいるからだった。
「おいしい?」
葵が尋ねる。
遥は小さく頷く。
「……うん。」
口の中に広がる味を、久しぶりにちゃんと感じられた気がした。
その返事を聞き、母は気づかれないように目元を押さえた。
◇
午後。
「今日は、家の前まで歩いてみない?」
葵が穏やかに提案した。
遥は不安そうに俯く。
「外……。」
胸がざわつく。外という言葉だけで、あの日の光景が脳裏にちらつく。
呼吸が乱れ、指先が冷たく震える。
「私も一緒。」
「ずっと隣にいる。」
その言葉を聞いて、遥は恐る恐る立ち上がった。
足に力が入らない。床を踏む感覚が遠い。
玄関を開ける。
初夏の風が頬を撫でる。
遠くで車の走る音や、子どもたちの笑い声がかすかに聞こえる。
その風が、あの日の空気と重なった気がして、胸が強く締めつけられる。
一歩。
また一歩。
遥は歩き始めた。
足音がやけに大きく響く。鼓動と重なって耳の奥で鳴り続ける。
けれど、家から十メートルほど進んだところで足が止まる。
視界がぐらりと揺れる。地面が遠い。息がうまく吸えない。
風が少し強く吹き、髪が揺れる。その感覚さえも現実から遠ざかるように感じられた。
「どうしたの?」
葵が優しく尋ねる。
遥は黙ったまま、葵の腕をぎゅっと抱きしめた。
指先に力が入りすぎて、震えているのが自分でもわかる。
「……怖い。」
「何が?」
「また。」
声が震える。途切れる。
喉が締まり、言葉がうまく出てこない。
「また葵がいなくなる気がする。」
葵は言葉を失った。
遥は涙をこらえながら続ける。
視界が滲み、葵の姿がぼやける。
「目を離したら。」
「また、いなくなっちゃう。」
「だから……。」
葵の制服を握る手に力が入る。
布越しに感じる温もりだけが、現実をつなぎ止めていた。
「離れないで。」
「お願い。」
「どこにも行かないで。」
その言葉は、心の奥底から絞り出された悲鳴のようだった。
◇
葵はそっと遥の両手を包み込む。
「遥。」
静かな声だった。
「私は今、ここにいる。」
遥は泣きながら首を振る。
胸が苦しく、呼吸が乱れる。
「でも……。」
「また事故が起きたら。」
「また会えなくなったら。」
「私……。」
そこから先は言葉にならなかった。
喉が詰まり、声が出ない。
葵は一歩だけ近づき、遥を優しく抱きしめる。
その温もりが、震える身体を少しずつ落ち着かせていく。
風が二人の間をすり抜け、揺れる木々の音が静かに重なる。
「怖かったよね。」
その一言で、遥の涙があふれ出した。
堰を切ったように、止まらなくなる。
「うん……。」
「すごく怖かった。」
「毎日。」
「毎日、目が覚めたら全部夢だったらいいって思ってた。」
葵は背中をさすり続ける。
その一定のリズムが、乱れた呼吸を少しずつ整えていく。
「ごめんね。」
「一人で抱えさせちゃった。」
遥は首を横に振る。
「違う。」
「私が弱かっただけ。」
声はまだ震えていたが、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
「弱くなんかない。」
葵は少しだけ強い口調で言った。
「遥はずっと、一人で頑張ってきた。」
「だから今は、私にも支えさせて。」
◇
二人はゆっくり歩き始める。
足取りはまだ不安定だったが、葵の腕の感触が支えになっていた。
少し先には、駅前の商店街が見えていた。
人の話し声や店先の呼び込みの声が、遠くからかすかに届いてくる。
その途中。
あの日、約束を交わした肉まん屋が目に入る。
遥の足が止まる。
表情が強張る。
胸が締めつけられ、呼吸が浅くなる。
あの日の光景が一瞬で蘇る。
「遥?」
「……ごめん。」
遥は俯いた。
視界が滲み、地面しか見えない。
「約束、守れなかった。」
「私が離れたから。」
その言葉を聞いた葵は、静かに首を横へ振った。
「もう謝らないで。」
遥が顔を上げる。
涙でぼやけた視界の中で、葵の笑顔がゆっくりと輪郭を取り戻す。
「私は生きてる。」
「今、こうして遥の隣にいる。」
「だから。」
葵は優しく笑った。
「これから約束を守ればいい。」
「事故の日の分も。」
「これから先の分も。」
遥はその言葉を聞き、声を上げて泣いた。
胸の奥に溜まっていたものが、一気に溢れ出す。
泣きながら何度も頷く。
それでも、葵の腕だけは離さなかった。
◇
その帰り道。
遥は一歩歩くたびに、葵の存在を確かめるように肩を寄せていた。
触れている部分から伝わる体温に、何度も安心を確かめる。
葵はその重みを受け止めながら、静かに空を見上げる。
青空には薄い雲がゆっくりと流れ、柔らかな光が街を包んでいた。
(まだ焦らなくていい。)
(遥はまだ、立ち直ってはいない。)
(でも、今日一歩だけ外へ出られた。)
(その一歩を、私は何度でも支えよう。)
初夏の風が、二人の間を優しく吹き抜ける。
それはまだ弱々しい歩みだった。
けれど確かに、止まっていた時間は少しずつ動き始めていた。
(第九章・後編へ続く)




