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第九章 君を取り戻す春(前編)


 葵が退院してから、一週間が過ぎた。


 六月の柔らかな陽射しが街を包み、庭先の紫陽花は色鮮やかに咲き始めている。


 けれど、遥の時間はまだゆっくりとしか動いていなかった。


 学校へは、まだ行けていない。


 部屋のカーテンも、葵が来る時だけ少し開ける。


 それ以外は、静かな薄暗さの中で一日を過ごしていた。


     ◇


 午前十時。


 玄関のチャイムが鳴る。


 その音が聞こえた瞬間、遥はベッドから起き上がった。


 さっきまで力の入らなかった足が、不思議なくらい軽く動く。


「……葵。」


 小さく呟き、部屋を飛び出した。


 階段を下りると、玄関では遥の母と葵が話している。


「おはよう。」


 葵が笑う。


「……おはよう。」


 その笑顔を見た瞬間、遥の表情が少しだけ和らいだ。


 母はその様子を見て、小さく胸をなで下ろす。


 葵が来た日だけ、遥は自分から部屋を出る。


 それが、この一週間で家族が気づいた小さな変化だった。


 遥はそのまま葵のそばへ歩み寄り、ためらうように制服の裾を指先でつまむ。


 離れないように、確かめるように。


     ◇


 リビングで紅茶を飲みながら、二人は静かに話をしていた。


「今日はよく眠れた?」


 葵が尋ねる。


 遥は少し考えてから首を横に振る。


「夢を見た。」


「また?」


「……うん。」


 事故の日の夢だった。


 体育館。


 倒れる脚立。


 遠ざかる救急車。


 目が覚めるたびに、あの日へ引き戻される。


 葵は優しく微笑み、そっと遥の手に触れた。


「もう大丈夫。」


「私、ここにいるよ。」


 その一言だけで、遥は静かに頷いた。


 その手を、そっと握り返す。


 指先に伝わる温もりを確かめるように。


 そして次の瞬間、遥はその手を強く引き寄せ、葵の腕にしがみつくように抱きついた。


 顔を肩に埋め、小さく息を吐く。


 離れたくないという気持ちが、そのまま形になったようだった。


 葵は驚きながらも、そっと遥の背中に手を回す。


「大丈夫だよ。」


 優しく撫でると、遥の体から少しだけ力が抜けた。


     ◇


 昼過ぎ。


「少し庭に出てみようか。」


 葵が提案する。


 遥は一瞬だけ表情を曇らせた。


「……外。」


「無理なら今日はやめてもいいよ。」


 首を振る。


「……葵と一緒なら。」


 二人は庭へ出た。


 六月の風が頬を優しくなでる。


 紫陽花の花が静かに揺れていた。


「きれいだね。」


 葵が空を見上げる。


 遥は何も答えない。


 ただ、葵の隣から一歩も離れなかった。


 風が少し強く吹いた時、遥は反射的に葵の腕を掴み、そのままぎゅっと抱き寄せる。


 制服の布を握る指に力がこもる。


 まるで、その温もりが消えてしまうことを恐れているようだった。


 葵はその手をそっと包み込み、軽く肩を寄せる。


「ここにいるよ。」


 その言葉に、遥は小さく頷いたまま、しばらく離れようとしなかった。


     ◇


 夕方。


 帰る時間になる。


 葵が立ち上がり、松葉杖を手に取った。


「じゃあ、今日は帰るね。」


 その言葉だった。


 遥の表情が、一瞬で曇る。


「……もう?」


「うん。また明日来るから。」


 葵は笑顔で答える。


 しかし、遥は何も言わない。


 俯いたまま、小さく拳を握っていた。


 玄関へ向かおうとした葵の制服の袖を、細い指がそっとつかむ。


 葵は足を止めた。


「……遥?」


 遥は俯いたまま、小さな声で言う。


「もう少しだけ……いて。」


 その声は震えていた。


「お願い。」


 葵はゆっくりと遥の前へ戻る。


「もちろん。」


 その言葉に、遥はようやく少しだけ力を抜いた。


 だが次の瞬間、遥はそのまま葵の胸元に顔を押しつけるように抱きついた。


 ぎゅっと、離さないように。


 制服を掴む指先が震えている。


 葵は驚きながらも、優しくその背中を抱き返す。


「大丈夫。まだいるよ。」


 その声に、遥は小さく頷き、しばらくそのまま動かなかった。


 葵は隣へ座り直す。


 二人は何も話さない。


 ただ、遥は葵の腕にしがみついたまま、体を預ける。


 それだけで遥は安心したように目を閉じる。


     ◇


 その日からだった。


 葵が帰るたびに、遥は不安そうな表情を見せるようになった。


「明日も来る?」


「来るよ。」


「本当に?」


「約束。」


 それでも遥は、葵が家を出るまで手を離そうとしなかった。


 玄関でも、最後まで袖を掴み、何度も抱きついては離れ、また掴む。


 まるで、少しでも離れれば消えてしまうと信じているかのように。


     ◇


 夜。


 葵は自宅へ戻り、ベッドへ腰掛けた。


 その時、スマートフォンが震える。


 遥


『家に着いた?』


 葵はすぐに返事を送る。


『今着いたよ。』


 一分もしないうちに、また通知が鳴る。


『足は痛くない?』


『今日はちゃんと薬飲んだ?』


『明日も来てくれる?』


 画面を見つめた葵は、小さく息をついた。


 返事を打つ。


『もちろん。』


『明日も、その次の日も行くよ。』


 送信すると、すぐに返信が届く。


『……よかった。』


 その短い一文に、遥の不安がすべて詰まっているようだった。


     ◇


 スマートフォンを置いた葵は、窓の外を見つめた。


 夜風がカーテンを静かに揺らしている。


「遥……。」


 再会できた。


 笑顔も戻った。


 そう思っていた。


 でも、それは違った。


 遥は元気になったわけではない。


 自分が隣にいる間だけ、心が崩れずにいられるだけだった。


 もし、自分がまたいなくなったら。


 遥は――。


 そこまで考えた葵は、小さく首を振る。


「大丈夫。」


 誰に言い聞かせるでもなく、静かに呟く。


「今度は私が支える番だから。」


 その決意は、夜空に浮かぶ月のように静かで、揺るぎないものだった。


                (第九章・中編へ続く)

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