第八章 君がくれた春(後編)
静かな住宅街に、チャイムの音が響いた。
玄関の奥から、小さな足音が聞こえてくる。
葵の胸は、今までにないほど強く高鳴っていた。
――遥。
会いたい。
その想いは、事故のあとからずっと胸の奥で膨らみ続けていた。眠れない夜も、リハビリで痛みに耐える時間も、いつも最後に浮かぶのは遥の顔だった。
でも。
どんな顔をすればいいんだろう。
笑えばいいのか。
謝ればいいのか。
それとも、何も言わずに抱きしめればいいのか。
もし、遥が自分を責めていたら。
もし、あの日のことを思い出して苦しんでいたら。
自分の存在が、さらにその傷をえぐることになったら――。
不安が胸を締めつける。
それでも、ここまで来てしまった。
逃げることなんて、もうできない。
答えは見つからないまま、玄関の扉がゆっくりと開いた。
「はい――。」
顔を出したのは、遥の母だった。
一瞬だけ目を見開く。
「……葵ちゃん。」
その声は震えていた。
驚きと安堵と、そしてどこか張り詰めていたものがほどけるような響きが混ざっていた。
「ご無沙汰しています。」
葵は松葉杖を支えながら、小さく頭を下げる。
その動作ひとつにも、まだ身体の不自由さが残っていることを自覚し、少しだけ悔しさが胸をよぎる。
「退院……しました。」
遥の母は両手で口元を押さえ、涙ぐみながら何度も頷いた。
「よかった……。」
その言葉を聞いた瞬間、葵の胸の奥に溜め込んでいたものがじわりと溶け出す。
自分が生きてここにいることを、こんなにも喜んでくれる人がいる。
それだけで、胸がいっぱいになる。
「ありがとうございます。」
遥の母は涙をぬぐいながら言った。
「遥に……会ってあげて。」
その一言に、葵は少しだけ表情を曇らせた。
胸の奥に、ずっと避けてきた現実が重く沈む。
「遥……どうしてますか?」
母は静かに目を伏せる。
「事故の日から、学校へ行けなくなってしまって。」
「毎日、自分を責め続けてるの。」
葵の呼吸が止まりそうになる。
胸の奥がぎゅっと締めつけられ、息を吸うことすら苦しくなる。
「……そんな。」
頭では分かっていた。
あの日、遥がどれほど自分を責めるだろうか。
想像していたはずなのに。
「『私が離れなければ』って。」
「何度も言って……。」
その言葉が、鋭い刃のように胸に突き刺さる。
――やっぱり。
予想していた。
でも、現実は想像よりずっと苦しかった。
遥がどんな顔でその言葉を繰り返していたのか、容易に想像できてしまう。
そのたびに、自分はここにいなかった。
何もできなかった。
――遥。
胸の奥で言葉にならない思いが渦巻く。
「二階にいるわ。」
遥の母は静かに階段を見上げた。
「行ってあげて。」
葵は力強く頷いた。
逃げない。
もう、逃げない。
◇
一段ずつ、階段を上る。
松葉杖をつく音だけが静かな家に響く。
その音がやけに大きく感じられて、まるで自分の存在を無理やり知らせているようで、少しだけ居心地が悪い。
事故のあと初めて来た遥の家。
何度も遊びに来たはずなのに、今日はまるで違う場所のように感じた。
楽しかった記憶があるはずなのに、今はそのすべてが遠く、色あせて見える。
廊下の突き当たり。
遥の部屋。
見慣れたドアの前で立ち止まる。
ここを開ければ、すべてが変わる。
遥と向き合うことになる。
深く息を吸う。
肺の奥まで空気を送り込み、震えそうになる心を押さえ込む。
そして、小さくノックした。
「……遥。」
返事はない。
胸がざわつく。
もう一度。
「遥。」
静寂。
部屋の中からは何も聞こえない。
もしかして、会いたくないと思われているのではないか。
そんな考えが一瞬よぎり、手が止まりそうになる。
それでも。
葵はゆっくりとドアノブへ手を伸ばした。
「入るね。」
静かに扉を開ける。
◇
カーテンは閉められたまま。
薄暗い部屋。
本棚には本が並び、机の上には読みかけの小説。
時間が止まったままのような空間。
その奥。
ベッドの上で膝を抱え、小さく丸くなっている遥がいた。
その姿を見た瞬間、胸が締めつけられる。
こんなにも小さくなってしまったのか、と。
ノックにも気づかなかったのだろう。
窓の方をぼんやり見つめたまま動かない。
「……遥。」
その声に。
遥の肩が、ぴくりと震えた。
ゆっくりと振り返る。
そして。
時間が止まった。
「……え。」
遥は瞬きを繰り返す。
目の前の光景を理解できないまま、現実と夢の境界を探るように。
「……葵?」
小さく名前を呼ぶ。
その声には、信じたい気持ちと、信じて裏切られることへの恐れが混ざっていた。
目の前には、松葉杖をつきながら立つ葵。
少し痩せてしまったけれど。
確かに笑っている。
その笑顔が、あまりにも変わらなくて。
だからこそ、現実味がなくて。
「……ただいま。」
その一言だった。
遥の瞳が大きく揺れる。
胸の奥に押し込めていた感情が、一気に溢れ出しそうになる。
「……夢。」
小さく呟く。
もし夢なら、このまま覚めないでほしい。
でも、もし現実なら――。
「違うよ。」
葵は優しく笑った。
「ちゃんと帰ってきた。」
その瞬間。
遥の頬を、一筋の涙が伝った。
止めようとしても止まらない。
抑え込んできたものが、堰を切ったように溢れ出す。
「……葵。」
もう一度。
「葵……。」
名前を呼ぶたびに、胸の奥が痛む。
嬉しいのに、苦しい。
会えたのに、不安が残る。
次の瞬間、遥はベッドから立ち上がった。
ふらつきながらも葵の前まで駆け寄る。
「遥!」
松葉杖が床へ倒れる。
遥は葵へしがみつくように抱きついた。
その温もりを確かめるように、強く。
――けれど、その腕はどこか必死すぎて、縋りつくというよりも、逃がさないために絡みつくようだった。
「ごめん……!」
震える声が部屋へ響く。
「私が……離れたから……!」
言葉が途切れながらも、謝罪があふれる。
その言葉は、三か月間、心の中で繰り返してきたものだった。
葵はそっと遥の背中へ腕を回した。
その細さに、胸が痛む。
「違う。」
優しく。
でもはっきりと言う。
「遥は悪くない。」
「でも……!」
「違う。」
もう一度。
自分自身にも言い聞かせるように。
「事故だった。」
「誰も悪くない。」
遥は首を横へ振る。
涙が止まらない。
頭では分かっていても、心が受け入れない。
「私……。」
「葵がいなくなってから……。」
「学校も行けなくなって。」
「本も読めなくなって。」
「何もできなくなって。」
「全部……壊れちゃった。」
言葉が途切れる。
自分がどれだけ弱くなってしまったのかを、初めて口にした気がした。
そして、ぽつりと続ける。
「……でもね。」
その声は、どこか乾いていた。
「壊れたままでもいいって、思うようになったの。」
葵の手が一瞬止まる。
「だって……。」
遥は葵の胸に顔を埋めたまま、かすかに笑った。
「こうして、葵が戻ってきてくれるなら。」
「私が壊れてても、関係ないでしょ?」
その言葉は、優しさではなく、どこか歪んだ安堵を含んでいた。
葵の胸の奥に、言いようのない違和感が広がる。
「ごめんね。」
今度は葵が涙を流していた。
自分がいなかった時間の重さを、ようやく実感する。
「待たせちゃった。」
「一人にしちゃった。」
二人とも泣いていた。
悲しかった涙。
苦しかった涙。
会いたかった涙。
けれど、その中に混ざるものは、もう以前と同じではなかった。
◇
しばらくして。
遥はようやく顔を上げた。
涙で濡れた目のまま、葵を見つめる。
その視線には、まだ不安が残っている。
――いや、それだけではない。
どこか、逃がさないという強い意志が宿っていた。
「……もう。」
声はまだ震えていた。
「どこにも行かない?」
その問いは、確認というよりも、縛りに近かった。
葵は少しだけ困ったように笑う。
未来のことを断言することの難しさを、どこかで理解している。
それでも。
「うん。」
そして、ゆっくり頷いた。
「今度はちゃんと隣にいる。」
その言葉に、遥の瞳がわずかに細められる。
安心したように見えて、その奥にはまだ消えない影があった。
「……約束だよ。」
小さく囁く。
その声は甘く、けれど逃げ場を与えない響きを帯びていた。
遥は泣きながら笑った。
その笑顔は、確かに再会の喜びを含んでいた。
けれど同時に、失うことへの恐怖が形を変えたものでもあった。
閉ざされていたカーテンの隙間から、一筋の陽射しが部屋へ差し込む。
その光は、寄り添う二人を静かに照らしていた。
けれど、その光はどこか鋭く、影をより濃く際立たせる。
床に落ちた影は絡み合い、ひとつになったようでいて、決して完全には重ならない。
長い冬は終わった。
凍りついていた時間は、確かに溶け始めている。
けれど、その雪解けの水は澄んでいるとは限らない。
春の陽射しは優しく降り注ぐのに、その下で芽吹くものは、どこか歪んだ形をしていた。
――それでも、二人はその光の中に立っている。
影を引きずったまま。
温もりと歪みを抱えたまま。
それが、彼女たちに訪れた春だった。
――第八章 君がくれた春 完




