第八章 君がくれた春(中編)
六月に入った。
窓から差し込む陽射しは初夏の暖かさを帯び、病院の中庭では紫陽花が色づき始めていた。
事故から三か月。
神原葵は、毎日のリハビリを続けていた。
松葉杖を使えば、ゆっくりではあるが一人で歩けるまでに回復していた。
病院の廊下を一歩、一歩進む。
まだ足には痛みが残る。
思うように歩けないもどかしさもあった。まるで自分だけ時間に取り残されているようで、焦りが胸の奥でじわじわと広がっていく。
それでも、葵は足を止めなかった。
その胸には、たった一つの想いがあったからだ。
――遥に会いたい。胸の奥でその言葉が灯のように揺れ、痛みさえも前へ進む理由に変えていた。
◇
「神原さん。」
担当医がカルテを閉じながら、ふっと柔らかく微笑む。
「順調に回復していますよ。」
葵は少し背筋を伸ばした。
「……ありがとうございます。」
「松葉杖はまだ必要ですがね、自宅での療養へ切り替えても問題ないでしょう。」
一瞬、時間が止まったように感じた。耳鳴りのように周囲の音が遠のき、言葉の意味だけがゆっくりと胸に落ちてくる。
「……退院、ですか?」
思わず声がかすれる。
「はい。」
担当医はゆっくりと頷いた。
「無理は禁物ですが……退院できます。」
その言葉を聞いた瞬間、葵の目に涙が浮かんだ。堰を切ったように感情が溢れ、嬉しさと不安が入り混じって胸を満たす。
「……ありがとうございます……。」
ようやく。
ようやく病院を出られる。
そして何より――。
遥に会える。その事実が、長い冬のあとに差し込む春の光のように心を温めた。
◇
荷物をまとめながら、葵は何度も考えていた。
事故の日から三か月。
遥はどんな毎日を過ごしてきたのだろう。
先生が話していた。
『上乃園さんは、ずっとあなたのことを待っていました。』
その言葉が何度も頭に浮かぶ。優しい声の裏にある遥の表情を想像するたび、胸が締めつけられる。
待たせてしまった。
心配を掛けてしまった。
もし泣いていたら。
もし自分を責めていたら。
そう考えるだけで胸が締めつけられる。自分の不在が誰かを傷つけていたかもしれないという事実が、鋭い棘のように刺さる。
――早く会わなきゃ。
――大丈夫だって伝えなきゃ。その言葉を届けることで、ようやく自分も前に進める気がした。
◇
退院の日。
病院の正面玄関を出ると、初夏の風が頬を優しく撫でた。
外の空気を吸うのは久しぶりだった。
空はどこまでも青い。
木々が風に揺れ、鳥のさえずりが聞こえてくる。
「いい天気だね。」
母が穏やかに、少し嬉しそうに言う。
葵もゆっくりと空を見上げた。
「……うん。」
小さく頷く。
事故の日以来、初めて見る学校のない空だった。
その青さが少し眩しかった。まるで自分だけが取り残されていた時間が、一気に動き出したようで、戸惑いと安堵が入り混じる。
◇
自宅へ戻って数日。
体力はまだ十分ではなかったが、少しずつ日常を取り戻していく。
そんなある朝。
葵は母へ静かに言った。
「……お願いがあるの。」
「どうしたの?」
母が少し首を傾げる。
「今日……遥の家へ行きたい。」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。口にした瞬間、胸の奥で何かが決壊しそうになるのを必死に抑えた。
母は少し驚いた表情を浮かべた。
「まだ無理しなくてもいいんじゃない?」
心配そうな声。
葵は首を横に振る。
「ううん……今じゃなきゃ駄目なの。」
一度息を吸ってから、続ける。
「ずっと……待たせちゃったから。」その言葉には、自分自身への赦しを求めるような響きも混じっていた。
その真っ直ぐな瞳を見て、母はふっと表情を緩めた。
「……分かった。」
優しく頷く。
「送っていくね。」
◇
車はゆっくり住宅街へ入っていく。
窓の外には、見慣れた景色が流れていた。
よく一緒に歩いた帰り道。
コンビニ。
公園。
駅前の肉まん屋。
あの日、二人で約束した店の前を通る。
葵は思わず窓の外を見つめた。
――約束、守れなかったね。胸の奥でその言葉が静かに沈み、後悔が波紋のように広がる。
胸の奥が少し痛んだ。
でも。
今日は違う。
今度こそ会える。
そう思うだけで、鼓動が少しずつ速くなる。期待と不安が入り混じり、心臓が小さく跳ねるたびに現実が近づいてくる。
◇
「着いたよ。」
母の声が、やわらかく現実へ引き戻す。
車の窓の向こうには、見慣れた一軒家があった。
上乃園家。
何度も遊びに来た家。
何度も「またね」と手を振った家。
けれど今日は、足が震えた。扉の向こうにある再会が、嬉しさと同じくらい怖かった。
松葉杖をつきながら車を降りる。
玄関までの短い距離が、どこまでも長く感じる。まるで一歩ごとに過去と向き合わされているようだった。
――遥。
元気でいて。
そう願いながら、一歩ずつ前へ進む。
玄関の前へ立つ。
深く息を吸う。
震える指をゆっくりと伸ばす。触れた瞬間にすべてが変わってしまう気がして、ほんの一瞬だけ躊躇した。
そして――。
ピンポーン。
静かな住宅街に、チャイムの音が響いた。
その音は、止まっていた二人の時間をもう一度動かす、小さな始まりの音だった。




