第八章 君がくれた春(前編)
五月の終わり。
病院の中庭では、新緑がやわらかな風に揺れ、葉擦れのささやきがかすかに耳に届いていた。湿った土と若葉の青い匂いが、開いた窓からほのかに流れ込む。
窓から差し込む朝の光が、白い病室を静かに照らしている。消毒液の淡い匂いが漂い、ひんやりとした空気が肌に触れた。
一定のリズムで響く心電図の電子音。
それは事故の日から変わることなく、静かに時を刻み続けていた。その規則的な音が、静寂の中でやけに鮮明に響く。
その朝も、いつもと変わらない一日になるはずだった。
◇
看護師が病室へ入り、カーテンをゆっくり開ける。カーテンの布が擦れる柔らかな音が、静かな空間に広がった。
「おはようございます。」
優しく声を掛けながら、点滴やモニターを確認する。ビニールチューブに触れる指先に、冷たい感触が伝わる。
ふと、その手が止まった。
ベッドの上の葵の指先が、かすかに震えたように見えた。シーツの上でわずかに布が擦れる。
「……?」
見間違いだろうか。
そう思った次の瞬間。
今度はまぶたが、ほんのわずかに動く。乾いたまつ毛がかすかに震えた。
「神原さん?」
看護師はベッドへ駆け寄った。足音が床に軽く響く。
「聞こえますか?」
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
閉じられていた瞳が薄く開く。光が差し込み、視界が白く滲む。
眩しい光に戸惑うように何度か瞬きを繰り返し、ぼんやりと天井を見つめた。乾いた喉がひりつく。
――ここは、どこだろう。
意識の奥底から浮かび上がる感覚は、現実なのか夢なのか判別がつかない。体が自分のものではないように重く、思考もどこか遠くに置き去りにされているようだった。
「先生を呼びます!」
看護師は急いで病室を飛び出した。ドアが開閉する音が鋭く響いた。
◇
しばらくして担当医が駆け込んでくる。白衣が擦れる音と、急いだ呼吸がわずかに聞こえる。
「神原さん、分かりますか?」
葵はゆっくり視線を動かした。
まだ焦点は定まらない。視界はぼやけ、光がにじむ。
体も思うように動かない。シーツの重みがやけに強く感じられる。
――どうして、こんなに動けないの。
焦りが胸の奥でじわりと広がる。けれど、それを言葉にする力も残っていない。
「ここは……。」
かすれた、小さな声だった。喉の奥が乾き、言葉が引っかかる。
担当医は安堵したように笑みを浮かべる。
「病院ですよ。」
「あなたは事故で入院していました。」
事故。
その言葉に、葵の表情がわずかに揺れる。胸の奥がざわつき、心臓の鼓動が少し速くなる。
体育館。
脚立。
飾り付け。
そして――。
『すぐ戻る。』
『うん! こっちは任せて!』
遥の笑顔が脳裏に浮かんだ。あの時の明るい声が、耳の奥でよみがえる。
――あのあと、どうなったの。
記憶が途切れた先にあるものを思い出そうとすると、胸の奥に鋭い痛みが走る。何か大切なものを置き去りにしてしまったような、取り返しのつかない感覚が押し寄せる。
葵は小さく目を見開く。
「……遥。」
その名前を口にした瞬間、胸の奥に熱いものが込み上げてきた。喉が詰まり、息が浅くなる。
――もし、あの時。
――もし、私が戻らなかったことで、遥が傷ついていたら。
言葉にならない不安と後悔が、波のように押し寄せる。
「遥は……?」
担当医は優しく答える。
「心配しないでください。」
「上乃園さんは、あなたのことをずっと待っていました。」
その言葉を聞いた葵は、静かに目を閉じる。まぶたの裏に温かな光が広がる。
――待っていてくれた。
その事実が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。同時に、どうしようもない罪悪感も浮かび上がる。
――こんなに長く、ひとりにしてしまった。
頬を一筋の涙が伝った。温かい雫が肌を滑り、枕に染み込む。
◇
午後。
両親が病室へ駆けつけた。慌ただしい足音と、ドアが勢いよく開く音が響く。
「葵!」
「お父さん……お母さん……。」
二人は娘の手を強く握る。温かく、少し震える手の感触が伝わる。
「本当に……よかった。」
言葉にならない涙があふれていた。嗚咽が静かな部屋に混じる。
葵も涙をこぼしながら、小さく笑う。頬に流れる涙が温かい。
「ごめんね。」
「心配かけちゃった。」
――こんなに泣かせてしまった。
自分が眠っていた時間の重さが、ようやく実感として胸に落ちてくる。守られていたはずの存在が、逆に誰かを傷つけていたのではないかという思いが、胸を締めつける。
母は首を横に振った。髪がかすかに揺れる音がする。
「謝らなくていい。」
「生きていてくれただけで、それで十分だから。」
その言葉に、葵の胸の奥で何かがほどける。同時に、これからどう生きていくべきかという問いが、静かに芽を出し始めていた。
病室は温かな涙に包まれた。人の体温と、かすかな消毒液の匂いが混ざり合う。
◇
数日後。
葵は少しずつリハビリを始めていた。
最初は体を起こすだけでも息が切れる。胸が上下し、呼吸が荒くなる。
歩く練習では看護師に支えてもらいながら、一歩ずつ前へ進む。床の冷たさが足裏に伝わり、筋肉が震える。
「焦らなくて大丈夫ですよ。」
理学療法士が優しく声を掛ける。穏やかな声が耳に心地よく響く。
葵は小さく頷いた。首を動かすだけでも重さを感じる。
「早く歩けるようになりたいんです。」
「会いたい人がいるので。」
――会いたい。
その想いは確かにあるのに、同時に怖さもあった。
――どんな顔をして会えばいいんだろう。
――あの時のまま、笑ってくれるのかな。
その言葉に、理学療法士は穏やかに微笑んだ。
「その人も、きっと待っていますよ。」
葵は窓の外を見る。風に揺れる木々のざわめきが遠くから聞こえる。
青空の向こうに、遥の笑顔が浮かんだ。
「待たせすぎちゃったな……。」
小さく笑おうとする。唇がわずかに震える。
けれど、胸が締めつけられた。心臓の鼓動が重く響く。
事故の日から、どれだけの時間が流れたのだろう。
遥はどんな毎日を過ごしているのだろう。
――もし、私のいない時間が、遥を変えてしまっていたら。
そんなことを考えるだけで、不安が押し寄せてくる。胸の奥が冷たくなるような感覚が広がる。
◇
一方、その頃。
遥は今日も自室のカーテンを閉めたまま、ベッドへ座っていた。部屋にはこもった空気と、わずかに埃の匂いが漂う。
机の上には読みかけの本。紙の乾いた匂いがかすかにする。
返事を書けなかったメッセージ。スマートフォンの冷たい感触が手に残る。
そして、文芸部のみんなと撮った一枚の写真。指先で触れると、紙のざらりとした質感が伝わる。
――どうして、あの時。
写真の中の笑顔を見つめるたびに、胸の奥に鈍い痛みが広がる。
――もっとちゃんと、引き止めていれば。
――あんなふうに送り出さなければ。
何度も繰り返してきた後悔が、今日もまた静かに蘇る。
病院では希望の光が差し始めている。
けれど、そのことを遥はまだ知らない。
葵が目を覚ましたことも。
自分に会いたいと願っていることも。
知らないまま、今日も静かな部屋で膝を抱えていた。自分の呼吸音だけがやけに大きく感じられる。
――もし、もう一度会えたとしても。
――私は、ちゃんと笑えるのかな。
胸の奥に沈んだままの感情が、言葉にならずに渦巻いている。
だが、止まっていた季節は確かに動き始めていた。
木々を揺らす初夏の風が、新しい物語の始まりを静かに告げていた。窓の外で葉が擦れる音が、遠くから届いていた。
(第八章・中編へ続く)




