第七章 一人の放課後(後編)
五月も半ばを迎えた。
朝の光がカーテンの隙間から部屋へ差し込んでいる。
目は覚めていた。
けれど、体が動かなかった。
天井を見つめたまま、どれくらい時間が経ったのかも分からない。
視界の端で光がゆっくりと形を変えていくのに、時間だけが自分を置き去りにして流れていくようだった。
階下から母の声が聞こえる。
「遥、朝ごはんできてるよ。」
返事をしようとした。
声が出ない。
喉の奥で言葉が固まり、まるで見えない手に押さえつけられているように動かなかった。
もう一度、母が呼ぶ。
「遥?」
静かな部屋。
時計の秒針だけが時を刻んでいる。
その音がやけに大きく、胸の内側を叩くように響く。
――学校へ行かなきゃ。
そう思う。
制服も用意してある。
鞄の中も昨日のうちに確認した。
それなのに、起き上がれない。
胸の奥が重い。
まるで濡れた砂を詰め込まれたように、呼吸をするたびにじわりと沈み込んでいく。
息を吸うたびに、その重さがさらに広がっていく気がした。
ふと、机の上に置いたままのスマートフォンが目に入る。
画面は暗いまま、何の反応もない。
指を伸ばせば届く距離なのに、そのわずかな距離が、深い水の底のように遠く感じられた。
腕を動かそうとすると、関節が軋むように重く、まるで自分の体ではないみたいだった。
◇
「今日は休む?」
母は部屋へ入ると、無理に起こそうとはしなかった。
遥は布団の中で小さく頷く。
その動きさえ、どこか他人事のように感じられる。
「……ごめんなさい。」
言葉を絞り出すと、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「謝らなくていいのよ。」
母はそう言って、遥の頭を優しく撫でた。
その温もりに触れた瞬間。
張り詰めていた何かが、音もなくひび割れた。
遥の瞳から涙があふれた。
頬を伝うその熱が、逆に自分がまだここにいることを突きつけてくる。
「ごめんなさい……。」
「学校へ……行けない。」
言葉にするたびに、胸の奥が削られていくようだった。
母は何も言わず、その涙が落ち着くまで隣に座っていた。
その沈黙が、優しさなのか、それとも現実なのか、遥には分からなかった。
◇
翌日も。
その次の日も。
遥は学校へ行くことができなかった。
文芸部の部長や白石から、心配のメッセージが届く。
『みんな待ってるよ。』
『無理だけはしないでください。』
画面を開く。
読んでは閉じる。
返事を書くことはできなかった。
何を書けばいいのか分からない。
「大丈夫」とは書けない。
その言葉は、今の自分にはあまりにも軽く、嘘のように感じられた。
「行きます」とも書けない。
その約束を守れない自分が、はっきりと見えてしまうから。
ただ、スマートフォンを静かに伏せた。
通知の光が一瞬だけ点いて、すぐに消える。
その小さな明滅が、遠くで瞬く星のように感じられ、自分とは別の世界の出来事のようだった。
◇
部屋の本棚には、小説が並んでいた。
昔の遥なら、どんなに落ち込んでも本を開けば少しだけ心が落ち着いた。
お気に入りの一冊を手に取る。
ページをめくる。
一行目を読む。
――頭に入ってこない。
文字は確かにそこにあるのに、意味だけが指の隙間からこぼれ落ちていく。
もう一度読む。
やっぱり読めない。
視線だけが滑っていき、心はどこにも触れないままだった。
遥は静かに本を閉じた。
「私……。」
文芸部へ入る前から好きだった本。
その本さえ読めなくなっていた。
ページをめくる指先が、途中で止まる。
その指先は冷たく、感覚が薄れているようだった。
ほんの少しの動きさえ、どこかぎこちなく感じられた。
まるで、自分の中の何かが少しずつ壊れていくのを、ただ見ているしかないようだった。
◇
午後。
母が部屋のドアをノックする。
「病院には行く?」
遥は少しだけ考える。
その問いかけが、胸の奥に沈んでいた現実を引き上げる。
そして、小さく首を振った。
「今日は……行けない。」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。
初めてだった。
毎日欠かさず通っていた病院へ行かなかったのは。
ベッドへ座り込んだまま、窓の外を見る。
青空だった。
鳥が飛んでいる。
近所の子どもたちの笑い声も聞こえる。
その音は軽やかで、遠く、まるで別の世界のもののようだった。
世界はいつも通り動いていた。
自分だけを残して。
取り残された感覚が、足元からじわじわと広がっていく。
◇
夕方。
机の引き出しを開ける。
中には、小さな写真が入っていた。
冬祭りで撮った文芸部のみんなとの集合写真。
その中央では、葵が満面の笑みでピースをしている。
遥も、その隣で穏やかに笑っていた。
写真を見つめる。
指先でそっと葵の姿をなぞる。
その指は、かすかに震えていた。
触れているはずなのに、そこには温もりがない。
ただ紙の冷たさだけが、現実を突きつけてくる。
「……葵。」
小さく名前を呼ぶ。
その瞬間。
胸の奥で張り詰めていたものが、一気に崩れた。
堰を切ったように、感情があふれ出す。
「会いたい……。」
声にならない。
喉が締めつけられ、息がうまく吸えない。
写真を胸へ抱きしめる。
その薄い紙が、やけに重く感じられた。
「会いたいよ……。」
涙が止まらなかった。
頬を伝い、顎から落ち、胸元を濡らしていく。
何度も。
何度も。
名前を呼ぶ。
呼ぶたびに、胸の奥が空洞になっていくようだった。
けれど、その声は静かな部屋へ消えていくだけだった。
◇
数日後。
学校では、遥が長く休んでいることを心配する声が広がっていた。
「上乃園さん、大丈夫かな。」
「神原さんのことがあったから……。」
文芸部でも、部長や白石は何度も連絡を送った。
それでも返事はない。
誰も遥を責めなかった。
ただ、帰ってくる日を待ち続けていた。
◇
一方、その頃。
病院の静かな個室。
夕日がカーテンを赤く染めている。
眠り続けていた葵の指先が――
ほんのわずかに動いた。
規則正しく響く電子音は変わらない。
けれど、ベッドの脇にいた看護師は、その小さな変化を見逃さなかった。
「……先生!」
病室の外へ駆け出す。
その知らせは、少しずつ病院中を駆け巡っていく。
しかし、そのことを遥はまだ知らない。
閉ざした部屋の中で、一人静かに涙を流し続けていた。
――第七章 一人の放課後 完




