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第七章 一人の放課後(中編)


 四月の終わり。


 校庭の桜はすっかり葉桜へと変わり、吹き抜ける風も春らしい暖かさを帯び始めていた。


 季節は確かに前へ進んでいる。


 それなのに、遥だけは前へ進めなかった。


 ――どうして、私だけ取り残されているんだろう。


 周りの時間は、何事もなかったかのように流れていくのに、自分の中だけが止まったままのようだった。


     ◇


「上乃園さん。」


 一時間目が始まる前。


 担任が優しく声を掛ける。


「体調は大丈夫?」


 遥は少し遅れて顔を上げた。


 ――ああ、呼ばれている。ちゃんと返事をしなきゃ。


「……はい。」


 自然に答えたつもりだった。


 けれど、自分でも分かるほど声に力がなかった。


 ――こんな声、私じゃないみたい。


「無理だけはしないでね。」


「ありがとうございます。」


 そう答えて席へ座る。


 机の中から教科書を出そうとして、手が止まった。


「……あ。」


 教科書がない。


 家に置いてきたのだ。


 ――嘘でしょ。


 今まで一度も忘れたことのない教科書。


 そんな基本的なことを、自分が。


 胸の奥がざわつく。


 担任は何も言わず、予備の教科書を机へ置いてくれた。


「今日はこれを使って。」


「……すみません。」


 小さく頭を下げる。


 ――どうして忘れたの?昨日、ちゃんと準備したはずなのに。


 教科書を忘れたことよりも、自分が忘れたという事実が信じられなかった。


 自分の中の何かが、確実に崩れている気がした。


     ◇


 昼休み。


 購買へ向かおうとして廊下を歩く。


 途中で、ふと足が止まる。


 ――あれ?


 私は、何を買いに行くんだっけ。


 しばらく立ち尽くす。


 頭の中が白くなる。


 パンだったか。


 飲み物だったか。


 それとも別の用事だったか。


 思い出せない。


 ――どうして思い出せないの。


 焦りだけがじわじわと広がる。


「上乃園先輩?」


 後ろから聞き慣れた声がした。


 振り返ると、白石が心配そうに立っていた。


「大丈夫ですか?」


「……うん。」


 答えながらも、自分がどこへ向かおうとしていたのか思い出せない。


 ――大丈夫なわけないのに。


 白石は少し迷ったあと、小さく言った。


「最近、あまり眠れてないんですか?」


 遥は答えられなかった。


 眠っている。


 はずだった。


 でも朝起きると、疲れだけが残っている。


 ――眠っているのに、どうしてこんなに苦しいの。


 夢の中でも、病室にいる葵へ話しかけ続けている気がした。


 何度呼んでも返事がなくて、それでも呼び続けて。


 目が覚めても、その感覚だけが残っている。


     ◇


 放課後。


 文芸部の部室。


 部長が新しい部誌の予定を説明していた。


「来月の文化交流誌だけど――」


 その声が途中から聞こえなくなる。


 遥は窓の外を見つめていた。


 風に揺れる木々。


 校庭を歩く生徒たち。


 その中に、無意識に葵の姿を探してしまう。


 ――いるはずないのに。


 分かっているのに、目が勝手に探してしまう。


 見つからないたびに、胸の奥が少しずつ削れていく。


「上乃園さん?」


 部長の声ではっと我に返る。


「ごめん、大丈夫?」


「……すみません。」


 何を話していたのか、まったく覚えていなかった。


 ――私、ちゃんとここにいるのに、どこにもいないみたい。


     ◇


 その日の帰り道。


 病院へ向かう途中で信号を待っていると、スマートフォンが震えた。


 画面には母からのメッセージ。


『今日は夕飯いらないの?』


 遥は返信を書こうとする。


 指が止まる。


 夕飯。


 昨日、食べただろうか。


 一昨日は。


 何を食べた?


 思い出せない。


 ――私、ちゃんと生活できてるの?


 食べた記憶が曖昧だった。


 空腹なのかどうかさえ、よく分からない。


『病院に寄ってから帰る。』


 それだけ送る。


 母はすぐに返してきた。


『分かった。無理しないでね。』


 その短い文章を見ただけで、胸が苦しくなった。


 ――無理してないつもりなのに。


 ――でも、もう限界なのかもしれない。


     ◇


 病室。


「来たよ。」


 今日も変わらない景色。


 静かな病室。


 静かな寝息。


 静かな電子音。


 遥は椅子へ座る。


 ――今日も、変わらない。


 それが安心なのか、怖いのか、自分でも分からなかった。


「今日ね。」


「教科書忘れちゃった。」


 苦笑しようとする。


 できなかった。


 ――笑えない。


 こんなことで笑えない自分が、さらに怖い。


「私……。」


「こんなこと、一回もなかったのに。」


 ベッドの上の葵は眠ったまま。


 何も変わらない。


 何も返ってこない。


「ねぇ。」


「葵なら、きっと笑うよね。」


『遥でも忘れることあるんだー!』


 そんな声が聞こえた気がした。


 遥は反射的に顔を上げる。


「……葵?」


 心臓が強く跳ねる。


 ――今、確かに。


 静寂。


 そこにあるのは電子音だけだった。


 遥はゆっくり俯く。


「ごめん。」


「今……聞こえた気がした。」


 ――分かってる。


 そんなはずないって。


 自分でも分かっていた。


 疲れている。


 心が限界へ近づいている。


 それでも。


 もう一度だけ、あの声を聞きたかった。


 ――一言でいいから、返事をしてほしい。


     ◇


 五月へ入っても、葵の意識は戻らなかった。


 学校では小さな失敗が増え続ける。


 宿題を忘れる。


 提出物を出し忘れる。


 教室を間違える。


 文芸部の原稿も、一文字も進まない。


 ――書きたいのに、言葉が出てこない。


 以前の遥を知る先生たちは、皆心配していた。


「上乃園さん、保健室で休んでおいで。」


「今日はもう帰ってもいいから。」


 その言葉に頷くことしかできない。


 ――逃げているみたいで、嫌なのに。


 帰る場所。


 向かう場所。


 今の遥には、病院しかなかった。


 ――あそこに行けば、葵がいる。


 それだけが、かろうじて自分を繋ぎ止めていた。


     ◇


 ある日の夕方。


 病院からの帰り道。


 校門の前を通りかかる。


 部活動を終えた生徒たちが笑いながら帰っていく。


「また明日!」


「バイバイ!」


 その中に、自分たちの姿が重なった。


 ――また明日。


 当たり前に言っていた言葉。


 明日が来ることを疑わなかった日々。


 ――どうして、あの時は疑わなかったんだろう。


 遥は校門の前で立ち止まる。


 夕焼けに染まる校舎を見上げる。


 胸の奥がじわりと痛む。


 そして、小さく呟いた。


「……私。」


 風が髪を揺らす。


「もう……頑張れないかもしれない。」


 ――これ以上、どうやって頑張ればいいの。


 ――何をすれば、元に戻るの。


 その言葉は誰にも届かなかった。


 けれど、その瞬間。


 遥の心を支えていた最後の糸が、音もなく切れ始めていた。


                (第七章・後編へ続く)

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