第七章 一人の放課後(前編)
四月も半ば。
校庭の桜は満開を過ぎ、風に花びらが舞っていた。
新しいクラス。
三年生としての日常。
周囲は少しずつ慣れ始めている。
けれど、遥だけは違った。
時間だけが進み、自分だけがあの日に取り残されているようだった。
――あの日の朝、葵と交わした何気ない会話が何度も蘇る。
「またあとでね」と笑った声。
その「あと」が来ないかもしれない現実を、どうしても受け入れられなかった。
◇
「上乃園さん。」
朝のホームルーム前、担任が声を掛ける。
「このプリント、職員室へお願いできるかな?」
「……はい。」
遥は受け取り、教室を出た。
廊下を歩く途中、向こうから女子生徒の笑い声が聞こえる。
「ねぇねぇ!」
「今日も一緒に帰ろう!」
その何気ない会話に、遥の足が止まる。
――また毎日、一緒に帰れるね。
葵の笑顔が蘇る。
何気なく頷いたあの時。
当たり前だと思っていた約束。
それがこんなにも簡単に崩れるなんて、想像もしなかった。
胸が締めつけられ、息が浅くなる。
――どうして、あの時もっとちゃんと返事をしなかったんだろう。
――どうして、あの日を特別だと思わなかったんだろう。
「……。」
遥は小さく首を振り、歩き出した。
考えるほど後悔ばかりが浮かぶから。
◇
昼休み。
癖で弁当を二人分並べそうになり、手が止まる。
「あ……。」
無意識にもう一つの机を見る。
そこには、いつも葵がいた。
「今日のおかず何?」と身を乗り出し、勝手に一口取っていく。
そんなやり取りが当たり前だったのに。
もちろん、今は誰もいない。
遥は静かに一つだけ弁当箱を開く。
一人で食べる昼食は、味がしなかった。
――昨日と同じはずなのに。
――葵が「美味しいね」と言った時は、ちゃんと味がしたのに。
箸を動かすだけ。
食べているのか、時間を消費しているのか分からなかった。
◇
放課後。
教室を出て、無意識に昇降口へ向かう。
そして立ち止まる。
いつもなら、ここで葵が待っていた。
「遥!」
笑顔で駆け寄り、「待った?」と聞いてくる。
その光景がはっきり浮かぶ。
遥は振り返る。
誰もいない。
ただ、生徒たちが帰っていくだけだった。
――どうして、まだ期待してしまうんだろう。
――ここに来れば、いる気がしてしまう。
「……そうだった。」
小さく呟く。
「いないんだった。」
自分に言い聞かせるように。
◇
病院へ向かう道にも慣れてしまった。
自動販売機。
横断歩道。
コンビニ。
すべて葵と歩いた道だ。
――ここでジュースを買って、じゃんけんした。
――信号待ちでどうでもいい話をして笑った。
――コンビニで新作のお菓子を半分こした。
記憶が風景に重なる。
今はただ通り過ぎるだけなのに、そこには確かに「二人」がいた。
病室へ入る。
「来たよ。」
今日も返事はない。
遥は椅子に腰掛ける。
「今日ね。」
「先生にプリント頼まれた。」
「ちゃんと届けたよ。」
少し笑おうとする。
――こうして話せば、いつか返事が返ってくる気がして。
でも続かなかった。
「……今日、お弁当。」
「一人で食べた。」
沈黙。
電子音だけが響く。
――ねえ、葵。
――どうしてこんなに静かなの。
――いつもなら何か言うのに。
「やっぱり、一人は寂しいね。」
ぽつりと漏れた本音。
遥は自分で驚いた。
今までなら言わなかった弱音。
――葵の前では、ちゃんとしていたかった。
――頼られる側でいたかった。
けれど、もう隠す余裕はなかった。
◇
翌日。
数学の授業。
先生に指名される。
「上乃園さん。」
「……はい。」
黒板へ向かう。
いつもなら解ける問題なのに。
途中で式が分からなくなる。
「あれ……。」
頭が真っ白になる。
――ここ、どうやって解いてたっけ。
チョークを持つ手が止まる。
数字がただの記号にしか見えない。
「大丈夫?」
先生が声を掛ける。
「……すみません。」
席へ戻る。
教科書を開いても文字が入ってこない。
――集中しなきゃ。
そう思うほど、思考は遠のく。
◇
文芸部でも変化は隠せなかった。
原稿を書こうとしても、一文字も浮かばない。
真っ白な原稿用紙を見つめるだけ。
――前は、こんなことなかったのに。
――葵と話したことはいくらでも言葉にできたのに。
ペンが動かない。
頭の中は空白だった。
白石が声を掛ける。
「上乃園先輩……。」
遥は顔を上げる。
「大丈夫ですか?」
「……うん。」
そう答える。
だが、その声に以前の穏やかさはない。
――大丈夫じゃない。
――でも、どう説明すればいいか分からない。
部長も様子を見ていたが、誰も言葉をかけられなかった。
◇
帰り道。
病院へ向かう途中、遥は足を止めた。
駅前の肉まん屋。
事故の日、葵と約束した店だ。
『終わったら駅前で肉まん食べよう!』
『……いいね。』
その約束だけが残っている。
――あの時、葵はどんな顔だっただろう。
――白い息を吐きながら笑っていた気がする。
湯気を見つめながら、遥は動けなかった。
――もし何も起きなかったら。
――今頃、ここで並んでいたのかな。
やがて俯く。
「……ごめん。」
誰に向けた言葉か分からない。
病院に着く頃には、夕暮れが街を包んでいた。
病室へ入る。
眠る葵の姿は変わらない。
遥は椅子に座る。
「……私。」
言葉が途切れる。
「一人だった時……。」
目を閉じる。
葵と出会う前の日々を思い出そうとする。
静かな教室。
一人の帰り道。
一人で読む本。
――あの頃も生きていたはずなのに。
――どうして今はこんなに遠いんだろう。
その過ごし方が思い出せない。
――どうやって寂しさをやり過ごしていたんだろう。
「どうやって……。」
遥は小さく首を振る。
「どうやって毎日を過ごしてたんだろう……。」
答えは見つからない。
――葵と過ごした時間が鮮やかすぎて。
――それ以前の自分が色を失ったようだった。
病室には電子音だけが響く。
遥の心もまた、静かに音を失っていくようだった。
(第七章・中編へ続く)




